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始祖はこう語った―親鸞と道元―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 親鸞(1173~1262)は、9歳で出家し、比叡山延暦寺で20年間修行に励んだ。29歳で法然の弟子になったが、法然の念仏宗にたいする弾圧に伴い、1207年に越後に流された。赦免後も越後にとどまり布教を続けたが、のちに関東に移って、20年あまりの精力的な活動をした後、京都に戻った。親鸞の『教行信証』は、関東で活躍していた時期の著作である。
 親鸞の没後、その教説を誤解したり、批判したりする人びとが現れた。直弟子の唯円は、その状況を嘆き、自分が聴いた師の教えを伝えるために『歎異抄』を著した。この本は、宗教書の古典中の古典として今も人気がある。金子大栄校注の『歎異抄』(岩波文庫、2020年[第118刷])は、1931年の初版から幾度も版を重ねて現在にいたっている。『歎異抄』を読むのは、僧侶や、仏教系の高校や大学の生徒、学生だけではないだろう。思春期に、なんとはなしに『歎異抄』を手にとり、よく分からないままに読み終えたというひとも少なくないに違いない。
 浄土真宗の根幹が和文によって説かれている『歎異抄』は、けっして読みにくい本ではない。平易なフランス語で近代哲学の要諦を述べたデカルトの『方法序説』に比せられると言ってもいい。しかし、手軽に読めるからといって、内容が理解できるとは限らない。平易な語り口を追っていくだけでは、背後にひそむ信仰の核心には迫れない。


 三田誠広は、『こころにとどく歎異抄』(武蔵野大学出版会、2018年)で、親鸞の生きたことばを読者に伝えようと試みている。三田は、「はじめに」でこう述べる。「親鸞の思想は、きわめてシンプルだ。シンプルなだけに、かえってわかりにくく、奥が深い」(3頁)。読者に『歎異抄』の深い意味を伝えるためには、『歎異抄』を口語訳するだけでは不十分だ。そこで、三田はこう考えた。「親鸞の語り口を拡大して、歎異抄の全文を語り直すことにしたら、親鸞の教えの最も大事な核心ともいうべきものが、読者の『こころにとどく』のではないだろうか」(5頁)。
 本書は、18の部分に分かれた『歎異抄』の構成にしたがい、第1章から第18章までと、それに加えた「最後の章」の全19章からなっている。さらに付録として、「仏教の歴史/釈迦から親鸞へ」が加えられた。各章には、簡潔な説明がついているので理解の助けになる。
 『歎異抄』の第一は、原文ではこう始まる。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうふなり」(岩波文庫版、40~41頁)。金子大栄による大意はこうである。「念仏する者を、光明の中に摂め取りたもう。それを阿弥陀と名づく。これ即ち阿弥陀は念仏者にその徳を現わし、念仏者は阿弥陀の光明の中に自身を見出すのである」(同版、41頁)。原文も大意も、これを読むだけでなにがしかが「分かる」ひとは、親鸞の思想を相当学んだひとであろう。一般の読者には意味不明な箇所が多い。
 三田の「超口語訳」(5頁)は、こうである。「唯円さん。一つお尋ねいたしましょう。あなたはもう一途に念仏を唱えて、阿弥陀さまのご誓願の不思議なお慈悲におすがりしようと、覚悟されていますね。
 それはどのような覚悟ですか。おそらく強い決意に支えられた、しっかりとした覚悟なのでしょうが、その覚悟の強さを、自慢するような気持でおられるのではありませんか。
 よく考えてごらんなさい。あなたがそんな気持になり、一途に念仏を唱えておられるというのも、すべては阿弥陀さまのお導きなのです。ですから自分は強い決意をもっていると、自慢してはいけません。そういうおごりたかぶった気持は、信心のさまたげになります」(10頁)。
 親鸞の意図を汲みとり、それが読者の心に響くようにと配慮した苦心の訳である。親鸞は、われわれが自分の力で生きているという思いを「おごり」にすぎないとたしなめ、われわれは阿弥陀さまのお力に預かって生かされて生きていることを片時も忘れてはならないと語った。「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えることが信心の道であると説いた。今でも、浄土真宗の高齢の信徒には、「南無阿弥陀仏」を、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と言い換えて口にする人が少なくないだろう。
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(岩波文庫版、45頁)で始まる第3は、三田訳ではこうである。「誰の助けも要らぬというほどに節制をして、自分に厳しく修行に努めている『善人』にも、阿弥陀さまはいよいよとなれば救いの手を差し伸べてくださいます。そんな『善人』でも救われるくらいですから、心が弱く自分ではどうしようもなく悪を重ねてしまう『悪人』は、心配しなくても阿弥陀さまは真っ先に救いの手を差し伸べてくださいますよ。
 世の中の人はこのことをまったく反対に考えて、こんなふうに言うでしょう。悪人でも往生できるのだから、善人はなおさら往生できるはずだ……と。理屈としてはとおっているようですが、わたしがつねづね言っている他力本願という趣旨からすれば、まちがった理屈と言わねばなりません。
 なぜかと言えば、比叡山の修行者のように、強い決意をもって厳しい修行に打ち込み、善きことをなそうと意気込んでいる人は、自力で何とかしようと思い込んでいるので、阿弥陀さまに無心におすがりする気持ちがありません。自分を善人だと考えている人は、信心がうすくなりがちです。自力を捨て、他力に頼る。そういう素直な心がけが、極楽往生につながるのです」(26頁)。
 今日でも、比叡山では、千日回峰行という荒行に挑む僧が、「堂入り」という10日間の行を行い、死の直前まで自分を追い込む。この行は、出発点として僧侶の決意と覚悟がなければ始まらない。親鸞が心を寄せたのは、修行僧に見られる自力独行の人ではなく、心が弱く、くじけやすく、道を外れて生きてしまう人たち、自分のどうしようもなさ、みじめさにもがき、苦しんでいる人たちだった。親鸞は、その人たちに、「そのままでいい、阿弥陀さまが救ってくださるのだから」と語り、阿弥陀さまに感謝して念仏を唱えることをすすめた。
 念仏について述べた第8は、こう訳されている。「念仏というものは、それを唱える人にとっては、修行でもないし、善でもありません。
 自分でそうしようと思って為すことではないので、修行とはいえません。自分の意志から生じたことでもないので、善ともいえないのです。わたしたちが念仏を唱えるのは、阿弥陀さまのお導きによるものです。自分の力によるものではありません。すべては他力というしかないのです。自分の手柄だと思ってはいけません。だからこそ、念仏というものは、修行ではないし、善でもないのです。このことをよくわきまえておいてください」(66頁)。親鸞は、自力では生きられない庶民を念頭において、現世の苦しみは念仏によって癒されるのだという他力本願の道を説いたのである。
 おしまいに、「歎異抄後序」のなかから、親鸞のことばを引用する。「自分はいま現に罪悪を犯し、生死に迷っている凡夫であって、限りなく遠い過去より、つねに沈みつねに流転して、迷いから逃れるすべを知らぬ身であると思い知らねばならぬ」(167頁)。浄土真宗の開祖親鸞が身近に感じられることばだ。
 本書の特徴は、親鸞という魅力的な宗教者の考えを平明に語りつくしている点にある。感受性の豊かな青春期に読むと、人が生きることがどういうことなのかについて自分で考える時間が生まれるだろう。

 

 道元(1200~1253)は、13歳で出家し、延暦寺と園城寺で学んだ。その後、京都の建仁寺で臨済禅を修め、1223年に入宋し、栄西禅師ゆかりの天童山景徳寺で如浄禅師のもとで厳しい修行を続けた。4年後に帰国し、しばらく建仁寺に仮寓したのち、1230年には深草に移り、3年後に興聖寺を創設して、僧団を形成した。1243年、道元は、比叡山からの圧迫を避けて、弟子たちと共に越前に移り、大仏寺というあたらしい道場をつくった。この道場は、翌年に永平寺と改称された。
 『正法眼蔵随聞記』(山崎正一全訳注、講談社学術文庫、2003年)は、道元に師事した懐弉禅師が、弟子たちに語った師のことばを筆録したものである。1235年から1237年の冬までの道元の語録である。仏道修行者は何に心を配り、どう生きるべきか、どう心得るべきかについて、繰り返して熱心に語られているが、道元が目にした世間の人びとについての観察も随所に述べられている。この側面では、道元は、日本のモラリスト(人間観察家)の先駆者であったと言える。本書は、1から6に分けられ、全部で99の教えが示されている。
 親鸞は、つねに絶対他力の世界を見つめていたが、道元は、徹頭徹尾、自力的な厳しい修行の道を求め、弟子にもそれを求めた。1ノ2にこう記されている。「今生もし学道修行せずは、何れの生にか、器量の物となり、不病の物とならん。只身命をかへりみず、発心修行する、学道の最要なり」(19頁)。山崎訳はこうである。「いま、この一生において、道を学び修行することをしなかったら、どのように生まれかわっても、素質すぐれた人となり、病なき人となることがあろうか。ひたすら、からだのことも、いのちのことも、かえりみず、悟りの道を学ぼうとの心を起し、ひたすら修行することこそ、最も肝要である」(20~21頁)。1ノ3には、仏道を学ぶひとの心すべきことがこう書かれている。以下、原文は省き、山崎訳のみをしるす。「仏道を学ぶ人は、ものをいおうとするときには、いう前に、よくよく考えて、自分のため相手のためになると思ったら、はじめて言葉に出すべきである。よくないと思ったら、いうべきでない。このようなことも、一挙にはできない。心がけて、段々と習熟すべきである」(26頁)。1ノ6では、道元の覚悟がこう語られる。「仏道を学ぶ者は、後日をまって修行しようと考えてはならぬ。ただ、今日ただいまの時を空しくすごすことなく、毎日毎日、毎時毎時、つとめはげまなくてはならぬ」(36頁)。道元が敢えてこう語るのは、一瞬一瞬に集中して、仏道を学ぶことがむずかしいからだ。むずかしいことは、先送りして、怠けてしまいやすい。なぜそうなるのか。1ノ7で、その理由が示される。「努力するか怠けるかの違いは、道を求める志が切実であるかないかの違いによる。志が切実でないのは、無常を思わないからだ。時々刻々、人間は死につつあるのだ。総じて、少しも止ることがない。しばらくでも存命の間、時をむなしく過すことがあってはならぬ」(41頁)。生きているということは、生きている時間が刻々と失われていることであり、道元が言うように、死につつあるということだ。しかし、凡人は、まだまだ先があると思いみなして、ついつい今をうつろにしてしまうのだ。
 1ノ8では、仏道の根幹が語られる。「仏道を学ぶ者は、それぞれ自己自身を、かえりみるべきである。自己自身をかえりみるというのは、自分の体と心とを、どのように持したらよいのか、とかえりみることである。ところで、禅僧は、これ即ち、釈尊の弟子である。したがって釈迦如来のなされたとおりを、見ならうべきなのである。体の処しよう、口のきき方、こころの保ちかた、すべてについて、目ざめた仏たちが、行ってこられたやり方があるのだ。各人みな、その作法にしたがうがよい」(46~47頁)。自己自身の顧慮とは、釈尊に倣って自己の心身の全体、ふるまい全体を処していくことであるという処方箋が明確に示されている。
 本書における道元の人間観察は興味深い。完全無欠な人はいないし、善いことのみに専念できる人もいない。道元の見立てでは、世間の人は、とかく人からよく思われようとするが、その執着のゆえに、思いどおりにはならない(64頁参照)。世の人はまた、こういうことをすれば人からどう思われるだろうとやたら気に病む存在であるが、他人の目がないところでは、恥ずかしいことや、悪いことをしかねない存在である(152~153頁参照)。道を学ぶ者でも、他人に迷惑をおよぼし、人の心を傷つけ、苦しませたりする存在でもあり、荒々しいことばを用いて、人を憎んで叱りつけたりする存在でもある(203~204頁参照)。相手のよい面を見ようとせず、一方的に欠点だけをあれこれをあげつらうのも人の避けがたい特徴である(208頁参照)。
 道元は、だれにも見られる欠点として、「おごり高ぶる」(334頁)という傾向をあげている。「自分の身が賤しいものでありながら、人に負けまい、人よりも優れようと思うのは、憍慢はなはだしいもので、これは煩悩の一つである」(334~335頁)。自分の地位や権力を笠に着て、周りの人の迷惑を気にかけず横柄にふるまうのは憍慢の最たるものであろう。そこまでいかないにしても、相手が自分よりも劣っていると自分勝手に思いこんで、高みに立って相手を非難するのも傲慢というものである。
 最後の6ノ24で、道元は座禅を強調している。「悟りの道を学ぶ上で最も重要なのは、座禅が第一である。大宋国の人が、多く悟りを得るのも、みな座禅の力である。(中略)したがって、悟りの道を学ばんとする者は、ひたすら座禅して、ほかのことに関わらぬようにせよ。仏祖の道は、ただ座禅あるのみだ。ほかのことに、従ってはならぬのだ」(337~338頁)。座禅に徹するためには、強固な意志と体力が欠かせない。今日でも、禅寺に入って禅僧の修行に身を投じようとすれば、覚悟が本物かどうかが問われる。入寺が許されたとしても、その後の修行と座禅の日常は厳しい。
 親鸞は、修行の道を説くことはなかった。親鸞は、強固な意志などもてない人、病を抱えている人、自分が犯す悪行を悔いながらも、それを度々繰り返してしまう自分に絶望している人などに心を寄せて、阿弥陀さまの本願にすがって生きる道を説いた。
 道元は、自己への執着を絶つこと、自分の心身を捨て、ひたすら道のために学ぶことを何度でも強調した。我執の力を身に染みて意識していたために、自己否定を語らざるをえなかったのである。しかし、そのことは、道元がいかに自己の存在を警戒していたかを物語っている。
 道元について知りたい人には、田上太秀の『道元の考えたこと』(講談社学術文庫、2001年)がおすすめだ。田上は、大学時代に『正法眼蔵』を読んだが、よく理解できなかった。その後も『正法眼蔵』との正面からの格闘は続いたが、本書では、「勝手口から訪ね、居間に邪魔して道元に面会し、本音を聞き出そうとつとめた」(7頁)という。そのぶん、肩のこらない記述が多く、読みやすい本である。


人物紹介

しんらん【親鸞】[1173~1263]

鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。日野有範(ひのありのり)の子。比叡山で天台宗などを学び、29歳のとき法然に師事し、他力教に帰した。師の法難に連座して越後に流され、ここで恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけた。のち、許されて常陸(ひたち)・信濃(しなの)・下野(しもつけ)などを教化(きょうけ)し、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説いた。著「教行信証」「愚禿鈔」など。諡号(しごう)は見真大師。→御正忌(ごしょうき) →大遠忌(だいおんき)

丹羽文雄の長編小説。昭和40年(1965)から昭和44年(1969)にかけて、「産経新聞」に連載。単行本は昭和44年(1969)、全5冊で刊行。本作の功労により、著者は昭和45年(1970)の第4回仏教伝道文化賞を受賞した。

五木寛之の歴史小説。の若き日を描く。平成22年(2010)、上下2冊で刊行。第64回毎日出版文化賞特別賞受賞。のちに、中年期を描いた第2部、晩年までの活躍を描いた第3部を発表。

©Shogakukan Inc.

"しんらん【親鸞】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-10-11)

どうげん〔ダウゲン〕【道元】 [1200~1253]

鎌倉前期の禅僧。京都の人。日本曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。諱(いみな)は希玄。比叡山で修学し、のち入宋して天童如浄の法を嗣(つ)いだ。帰国後、建仁寺に住し、京都に興聖寺を、さらに波多野義重の請により越前に永平寺を開いた。勅諡号(ちょくしごう)、仏性伝東国師・承陽大師。著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」「普勧坐禅儀」「学道用心集」など。

©Shogakukan Inc.

"どうげん【道元】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-10-11)

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