蔵書検索(OPAC)
HOME > 資料案内 > 新しく入った本 > おすすめの一冊
新着資料 ベストセラー 学生の購入リクエスト
映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。
 

前の本へ

次の本へ
書くことと生きること-あるジャーナリストの見方―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 千本健一郎の『「書く力」をつける本』(三笠書房、1998年)は、東京・新宿の朝日カルチャーセンターでの文章教室をまとめたものである。「書く力」を鍛えたいと集まってくるひとびととのやりとりを通じて得られた経験が巧みな語り口で表現されている。著者は、かつて「朝日ジャーナル」で健筆をふるい、副編集長もつとめた。
 「はじめに―『書く力』の3原則」、「いい文章を『書く』ためには」、「表現力と言語感覚をみがく」、「文章、その吸引力の秘密」、「『引用の力』、『再現』の魅力」、「『文章の作り方』具体例―<わが声>を届かせる」の全5章、「おわりに―何をどう読ませるか『スパイクからバイラインへ』」からなっている。
 自分の文章を正確にむだなく伝えるために必要なこと、これが著者の強調したいことである。著者の教室の新入生のなかには、読み手のことを意識せず、自分の言いたいことだけを書くひとが少なくない(19頁参照)。自分の書いたものにうっとりする、自分の感情を吐露するだけで終わる、自分の体験したことを何もかも書き立てる、論証の道筋を途中で見失うといった文章もよく見られる(同頁参照)。自分の書いたものが他人の厳しい目にさらされることを忘れて、ひとりよがりの文章を書くからである。そこで、著者は、作文の際には、まず書きたいことの見取図をつくることが大切であると言い、そのための座標軸として次の5つを提案している。1.何と何を伝えなければならないかの選択、2.材料の優先順位の確定、3.関連事項の適切な配置、4.論理=筋道の維持、5.言いたいことが伝えきれているかの確認である(21頁参照)。この種の座標を注意深く意識して書かないと、文章全体の統一性が失われ、焦点の定まらないあいまいな文章になって、読み手を満足させることができないというのだ。


 著者はこう述べる。「文章は、人間関係のなかに置かれてこそ文章なのだ。<私>に始まって<私>に終わるつぶやきとは、そこが根本的に違う。文章は公表を前提としている。したがって何より肝心なことは、意見の相違はあっても明晰な語り口で他者に分かるように書ききることだ」(23項)。著者は、文章を書くということが「書き手が自らの既知の輪から出ようとする行為」(同頁)、「それによっておのれの意識の世界をひろげ、自分自身を変えようとする試み」(23~24頁)なのだと説く。書くことによって変身が可能になるという主張には共感する。自分になじみの世界に自己満足し、それを超えて生きようとしなければ、あたらしい思考は生まれないし、思索と表現によって自分を変えていくことはできないのだ。
 とはいえ、自分でつぶやいているだけでなく、他人に伝わり、共感や、ときには反発を買う文章を書くのは簡単ではない。そのためには、感受性の鋭いアンテナをはっておかなければならない。日常生活では、「あれ?」と疑問に思ったり、ちょっとした違和感を覚えたりすることが頻繁に起こっている。たとえば、同席していたひとの顔が一瞬曇るとか、相手の目つきが変わるといった瞬間の出来事だ。それを気にかけなければ、すぐに忘れてしまうような些細なことだ。しかし、そこで立ち止まって、相手の心に何が起きていたのかをさぐり、そこに隠されている意味を考え直してみる。そうすると、些細な出来事の反省から、気づいていなかった意味が明らかになってくる。もしもこの一連の思案をめぐらす過程をそのつど文章化すれば、書いたものを後から何度でも読み直して、反省を深めていくことができる。考えることは過ぎ去ってしまうが、書いたものは残る。それが入念に仕上げられたものであれば、読み手の側の既知の輪を広げることにもつながっていく。書くということは、考えることを文章化することによって自分自身のみならず、他者をも変えうる実践なのだ。
 それに対して、「何も考えず、何の策略ももたずに書く人たちは、読む側から無視され、拒否されるこわさに鈍感すぎる。何の根拠(あて、目算)もないのに、自分の書くものは人さまが読んでくださる、と思いこんでいる」と著者は言う。自分にしか分からないものを書いて、他人に読んでもらおうと思うのは図々しい。自分の書いたものを突き放して、他人の目で見直し、修正する作業を伴わない文章は、読み手をうんざりさせるだけだ。
 それでは、いい文章を書くためには何が求められるのだろうか。著者は次の4つの条件をあげている。1.資料や人間にあたってよく調べ、事実を正確に盛りこむこと。2.事実を順序だてて整理し、表現すること。3.文章の輪郭、中身をはっきりさせ、着ぶくれのない表現をめざすこと。4.おや、と思わせる新奇な要素をいれること。それが読み手に笑いや驚き、感嘆、反発などを呼びさますからだ(26~27頁参照)。こうした条件が満たされることによって、文章全体の骨格がはっきりし、内容も適切に表現されてはじめて、読み手の共感を呼ぶことができるだろう。
 著者はまた、いい文章を書くための条件についても述べている。まずは、よく読むことである。そのための大前提は、世の中のさまざまな出来事に対する好奇心の強さである。それがなければ、他人がそれらについてどう見ているのかという疑問も生まれてこない。「他人の書いたものに興味や関心のもてない人が、どうして自分の書いたものなら他人が目を光らせてくれるなんて信じられるのだろう」(29頁)。他人の書き物を読んで、どういう問題が、どういう角度から、どういうふうに表現されているかを不断に学び続けていると、それが自分の書くものに反映するようになる。自分の表現の仕方が他人にどう評価されるかも見通せるようになってくる。だからこそ、よく読んで、考えることが必要になるのだ。著者は、教室で「浴びるほど、ひっくり返るほど本をお読みなさい」(同頁)と言い続けているという。
 次は、さまざまな題材を見つけて書く訓練を欠かさないことである。作文であれ、スポーツであれ、絶え間ない練習がなければ上達しないことは明らかだ。いい文章は、書く習慣を支えとするのだ。
 三番目は、「書きあげた文章をみずから添削し、推敲すること」(同頁)である。これが一番むずかしいかもしれない。なぜなら、ひとは他人のことはすぐ目につくが、自分自身を客観的に見ることが一番むずかしいからだ。しかし、幸いなことに、書いたものにはおのずと自分の心の姿が映し出されているので、それを読み直して丁寧に検討していけば、著者の言う添削・推敲は不可能ではないだろう。
 本書では、宇野千代、水上勉といった作家や、米原万里、五木寛之といったエッセイストなどの巧みな文章をふんだんに引用して、いい文章を書くための秘訣が明快に示してある。文章を書くトレーニングに大いに役立つこと間違いなしだ。


 『よく生きることはよく書くこと ジャーナリスト千本健一郎の文章教室 1985-2015』(静人舎、2022年)は、朝日カルチャーセンターで30年間にわたって文章指導を続けた千本健一郎が遺した文章をまとめたものである。千本は、毎年4期開催された講座の期末ごとの文集に自分のエッセイを寄せた。題材は、映画、文学、戦争、強制収容所、ホロコースト、ジェノサイド、差別、冤罪事件、知人、肉親、自身の失敗談など多岐にわたり、全部で99篇が集められている。なかでも過去の歴史的な事実を徹底的に深く掘り下げ、偏見をしりぞけ、考えに考え抜き、明快な文章にまとめあげていくとき、筆者の筆は冴えを見せる。たとえば、「気になる夏」(1994年)は、過去の歴史を顧みるときに生じがちな自国中心主義的な見方を厳しく諌める一文である。「灰色の領域」(2003年)は、アウシュヴィッツやホロコーストについての紋切り型の理解を粉々に打ち砕くアメリカ映画「灰の記憶」を取りあげて、現実に起きたことの細部に踏みこんで考えることの大切さを強調している。「映画とサッカーの効用―アフリカへの接近―」(2006年)では、千本は、南アフリカ、英、伊合作の『ホテル・ルワンダ』を見た後の思いをこうしるしている。「この事実をもとにした劇映画に接して、これだけの大事に対する、日本とアフリカとの隔たり以上の、無知と無関心に起因する隔絶感ともいうものを思い知らされた。それが衝撃だった。それで精一杯だった」(359頁)。そのほかにも、他国の現実を詳しく知ろうとせず、怠惰な思考に甘んじている筆者を鞭打つような、ずしんと響くエッセイがいっぱいつまっている。
 しかし、重いエッセイばかりではない。「文はひとなり」というが、練りあげられた名文の数々には、千本というひとの思考のしなやかさが反映したものも少なくない。主題に応じて筆峰は厳しく、容赦ないものとなるが、身辺の話になると、飄々として、ユーモアも交えた暖かい文章が心に響く。「編者より」のなかで、馬場先智明は、「どの話題についても、『ものごとの深みに触れ、考えるべきことを考え、耳をすます』という姿勢で貫かれています」(3頁)と述べている。
 本書のタイトルは「よく生きることはよく書くこと」である。千本にとって、両者は切り離せない。第1回のエッセイ「由来記」(1987年)のなかでこう述べられている。「わたしは講義のしょっぱなに、文章の基本は自分の言いたいこと、つまり用件をもれなく的確に伝えることだ、と話した。よく生きることがよく書くことにつながるとも述べた」(16頁)。たくさんの本を読み、深く考え、考えたことを書くこと、よい文章が書けるようになるためには、それしかない。
 宗教や、哲学、倫理学などの分野では、しばしば、「よく生きること」が望ましいと語られる。「よく」という平凡なひらがなには、「善く、良く、好く」という意味がこめられている。ヘラクレイトスやデモクリトスをはじめとするソクラテス以前の哲学者たちは、周囲のひとびとの言動を覚めた目で見つめ、ひとびとがともすれば悪へと傾き、好ましくない生き方をするのを苦々しく思っていた。だからこそ、よく生きることにこだわったのである。ソクラテスも同様だ。自分や他のひとびとの過ちや悪を見続けていた千本も、そのこだわりをもって生きた。
 「文章教室と本」(1990年)では、「よく書こうとするものは、よく読まなければならない」(23頁)と確信する著者が、おもしろいもの、わかりやすいもの、文章のいいもの、同時代をビンビン感じとれるものという選択基準のもとで、51冊の本を紹介している。いくつか紹介しておこう。とっつきにくい本もあるが、読めば確実に世界が広がる。広津和郎『松川裁判』上・中・下(中公文庫)、佐和隆光『経済学とは何だろうか』(岩波新書)、加藤周一『羊の歌―わが回想』(岩波新書)、石牟礼道子『苦界浄土』(講談社文庫)、加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書)、澤地久枝『昭和史のおんな』(文春文庫)、開高健『もっと遠く!』(文春文庫)、長田弘『私の二十世紀書店』(中公新書)(23~26頁参照)。
 「講師が推薦する二十冊」(1994年)では、読売新聞編集局編『20世紀のドラマ・現代史再訪1~3』(東京書籍)、柳田國男『明治大正史・世相篇』(講談社学術文庫)、大庭みな子『津田梅子』(朝日文芸文庫)、阿刀田高『新約聖書を知っていますか』(新潮社)、芳賀矢一、杉谷代水編『作文講和及び文範』(講談社学術文庫)などが紹介されている(72~73頁参照)。過去に起きたこと、現に起きていることの真実に迫るためには、本を浴びるように読まなければならないと確信する千本のおすすめの本たちである。
 著者は、デッドライン(1997年)では、先達からのすすめをこうまとめている。「少しでもいいものを書こうと思ったら、目の前の原稿のことだけ考えていてはいかん。次の原稿、先ざきのものに、より魅力的な材料を盛りこもうとしたら、一人でも多くの人と話せ。酒もたしなめ。一冊でも多く本を読め。一本でも多く映画を見ろ、芝居にしたしめ。絵をながめ、彫刻にも近づけ。音楽で耳を肥やせ。旅をして数かずの未知に触れるがいい」(150頁)。さまざまな分野に好奇心をもち、情熱的に迫っていくパワーこそがいのちであり、それが自分をつくり、いい文章を書く肥やしとなるということだ。肥沃な土壌は、植物にもひとにも欠かせないのだ。
 「水上さんと文章教室」(2004年)では、「人はなぜ文章を書くのか」というテーマで講演した水上の発言が再録されている。「体験をいい文章に転化する力、知恵、方法についてうかがいたい」(319頁)、と問われて、水上はこう答えている。「そんなこと、ぼたもちのようには買えんよ。でも皆さんは文章をやろうっちゅうことで苦を平等に味わい始めた。文章を考えようなんて苦界を自分で作ったんだから、しんどいよ。覚悟はいいか、ですよ」(320頁)。「人生のあらゆるこまを、事件を、感情を書いていく。そういう自由な世界でもあるんだ、文章書くというのは。人間なら数珠を一つ持てると思うから、そういうものを生み出すんだ。そんなのは自分で作るんだから、自分で磨きをかけるんだから、私に教えてほしいというもんじゃなかろう」(同頁)。いい文章を書くための基本や注意事項は、ひとから教えてもらうことができる。しかし、それに注意すれば、いい文章が書けるわけではない。水上の言うように、自分で自分に磨きをかけるという孤独でしんどい作業を続けなければならない。水上はそれを苦界に生きると表現しているのだ。そのうえで、聴講者にその覚悟を問うている。
 「それぞれの九十代」(2007年)では、音楽評論家の吉田秀和の発言が引いてある。「人間は愚かで、とかく理に反することをする。私たちは毎日それを知らされる。モーツアルトはそういう人間と世界を土台に、天使が微笑み、泣き、歌うような音楽を書いたのだった」(380頁)。ユダヤ教の戒律「なんじ殺すなかれ」は、人間同士の殺し合いが続く世界の証である。イエスは、人間の憎悪には歯止めが利かないことを知りつつ、「なんじの隣人を愛しなさい」と説いた。
 「私たちは何のために読む力をもち、書く技を磨こうとしているのか」(484頁)。この問いの答えは、本書に示されている。本書を読み、本書ですすめられている本の1冊でも2冊でも読めば、「よく生きること」と「よく読み、よく書くこと」への手がかりが得られるかもしれない。


 


人物紹介

千本 健一郎 (せんぼん―けんいちろう) [1935-2019]

 

1935年 東京生まれ
1965年 朝日新聞社入社
「週刊朝日」記者、「朝日ジャーナル」記者・副編集長・編集委員などを経て、出版局スタッフエディター
1985年から2015年まで30年にわたって朝日カルチャーセンター・文章教室の講師を務める
2019年没


―本書より

ページトップへ戻る