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詩と哲学の二重奏―ふたりの詩人とひとりの哲学者―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 谷川俊太郎/長谷川宏『魂のみなもとへ 詩と哲学のデュオ』(近代出版、2001年)は、谷川の詩と、それに触発されて書いた長谷川の散文を対比させた本である。「生と老と死」を意味のある、内容豊かなものとして考えたいと願うひとりの編集者が、谷川の詩につける文章を長谷川に依頼したことからこの本の企画が始まった。「つける」という作業について、長谷川はこう述べる。「対象とは異質な自分を打ち立てるのが批評だとすれば、『つける』は対象の色に染まりつつ自分を打ち出す試みなのだ」(200頁)。「つける」ためには、批評とは異なる、対象との微妙な間の取り方が不可欠だという。長谷川によれば、品がよく、遊びが多く、軽やか、というのが谷川の詩という対象の色だ(同頁参照)。「その色になかば染まりながら自分の思考を重ねていくことは、新鮮で張りのある経験だった」(同頁)。谷川の詩に深く共感した長谷川は、共感の由来や理由を反省し、再考を重ね、文章を刻んだ。こうして長谷川は、谷川の詩に強く影響を受けながら、自分にしか書けない散文を形にした。1952年から2000年の間に書かれた詩のなかから、全部で30篇の詩が選ばれている。


 

 本書には「詩と哲学のデュオ」という副題がついているが、詩人と哲学者が相互に相手を意識して二重奏を奏でているわけではない。谷川が多年にわたって書いてきた詩を題材にして、編集者から依頼された長谷川が思索を紡ぐという一方的な形であり、がっぷり四つに組んでいるわけではない。長谷川の言わば片思いの本だ。その稀有な試みを肯定的に評価する読者もいれば、両者の双方向的な絡み合いの欠如に物足りなさを感じて、不満を感じる読者もいるだろう。詩だけで十分だろうと意地の悪い見方をするひともいるかもしれない。
 谷川は、やさしいことばで、われわれが見逃している日常の断面を鋭く抉り出す。谷川は、「はじめに」の結びでこう述べる。「日常のうちに生きながら、日常を超えたなにものかに向かおうとするところに、哲学者と詩人の接点がある。それを他者に伝えるのに、難解な哲学用語や詩語は必ずしも必要ではないと私は思う。魂のみなもとを探ろうとする心はどんな人間にもあるのだから」(5頁)。魂のみなもとはどこにあるのだろうか。それをさぐるためには、人間と世界、身体と宇宙、生命と歴史、環境と自然、記憶と想像、あなたと私など、あらゆる領域に踏みこんでいき、日々の生活のなかで直接には見えないもの、日常を超えたものに向かっていかなければならない。そうした試みが本書の詩に結実している。
 谷川の詩に染まりながら、長谷川はどのように自分を打ち出しているのか。まず、「忘れること」という詩を引用してみよう。


    どうしても忘れてしまう
    いま目の前にある楓の葉の挑むような赤
    それをみつめているきみの
    ここにはない何かを探しているような表情
    きみもまたきっと忘れているのだ
    結局は細部でしかないこの世の一刻一刻を
    そして憶えていることと言えばただひとつ
    自分が生まれていつかは死ぬという事実
    それが幼い子どもが初めて描いたクレヨンの一本の線のように
    ゆがんで曲がってかすれて途切れ……

 

    だがどうして忘れてしまってはいけないのか
    倦きることと忘れることのあのあえかな快楽が
    朝の光をこんなにもいきいきとさせているのではないか

 

    どうしても忘れてしまう
    記憶だけが人間をつくっているのだということさえ
    だからきっと人間は本当は歴史のうちに生きてはいないのだ
    限りない流血も人を賢くしない
    そして忘れ去ったものがゴミのように澱んでいる場所でしか
    きみもぼくも話し始めることが出来ない (50~51頁)

 

 日常生活は平凡なこと、細かなことの連続だが、そのほとんどは忘れ去られてしまう。ありふれたことは言うまでもなく、重要なことでさえも忘却の淵に沈んでいく。大切なことを憶えておけないこと、忘れることがもたらす痛みを見つめた詩だ。

 この詩に対して、長谷川は「忘却と記憶」と題する哲学的な散文をつけている。「記憶と忘却は、わたしの過去と現在とを結ぶ精神の絆であって、わたしがどう生きてきたか、いまどう生きているか、これからどう生きようとしているか、という、わたしの生き方と密接不可分の関係にある心の働きだ」(53頁)。長谷川は、30年前の全共闘運動体験がいまも生々しく蘇えってくると言う。「全共闘体験とわたしのいまとの結びつきの強さが、記憶を忘却へと追いやらないし、記憶を古びさせないのだ。(中略)わたしの現在の意識は過去の体験とのつながりをもち、そのつながりが、忘却の淵に沈んでいるであろう多くの事実を背景として、その前面に、特定の事実をなまなましい記憶として呼びだすのだ」(54頁)。他方で、長谷川は、何かを完全に忘れることも、完全に覚えることもできないし、どんなに大切なことやつまらない事柄もいつか忘れられ、いつか思い出される。忘れられたものが思い出され、それがまた忘れられるとも言う(55頁参照)。「記憶と忘却は、精神の内面に位置するものでありながら、そんなにも気ままなものだ」(同頁)というのが長谷川の見方だ。
 谷川は、「忘れること」の多様な側面をつなげて1篇の詩をつくっている。忘れることもあれば、忘れられないこともある。思い出せることもあれば、思い出せないこともある。しかし、いずれは忘れさられる。忘れることのできる「快楽」にもそっと触れながら、「わすれること」の経験の断面を、あざやかに切り取った詩だ。
 長谷川は、過去の自分の体験へと降りていきながら、記憶と忘却の結びつきを振り返っている。長谷川の心象風景のなかで揺れ動く両者の絡み合いが表現されている。谷川は、懐が深く、広い世界に通じる忘却の詩をうたい、長谷川は、忘却を自己の内面の世界にとどめている。
 本書を手引きにして詩と散文を往還するなかで、人間や自然、世界についての思索が深まってくるだろう。

 

  茨木のり子/長谷川宏『思索の淵で 詩と哲学のデュオ』(近代出版、2006年)は、『詩と哲学のデュオ』の第2弾である。1955年から1999年の間に書かれた、全部で28篇の詩に散文がつけられている。
 長谷川は、「おわりに」で、こう述べている。「茨木のり子の詩は、ことばの響きがやや硬質で、言いたいことがすっきりとおもてに出ているものが多い。それに耳を傾けつつ、そこから自分の思索をどう紡ぎだしていくか、それが課題だった」(202頁)。しかし、その後、茨木の主張と自分の思索の同質性に気づいて、思索が広がらなくなり、行き詰まった。そこで、詩と距離をとって、音の響きを無心に追いかけたり、音読したり、読む速度に変化をつけたりして、ようやく再出発できたという(203~204頁参照)。「茨木のり子の詩の世界に入りこみ、思いをなかば共有しつつ、自分なりの思索を展開できる、という自信らしきものが生まれてきた。後半の十数篇はその自信を支えになんとか書きすすむことができた」(204頁)。長谷川はこうも述べている。「詩と散文のつらなりのうちに、思考のぶつかり合いと響き合いを感じてもらえるとうれしい」(204頁)。
 長谷川と面識のなかった茨木は、「はじめに」の結びでこう述べている。「思索という言葉からは、なにやら深遠なものを想像しがちだが、たとえば女のひとが、食卓に頬杖をついて、ぼんやり考えごとをしているなかにも、思索は含まれると思うほうである」(5頁)。思索を堅苦しく考えず、平凡な日常生活のなかで起きる些細な出来事のなかに位置づけようとするひとのことばだ。

 

 「さくら」という詩と、それにつけられた散文との間には、長谷川の言うある種の「響き合い」が感じられる。その詩を引用してみよう。


    ことしも生きて
    さくらを見ています
    ひとは生涯に
    何回ぐらいさくらをみるのかしら
    ものごころつくのが十歳ぐらいなら
    どんなに多くても七十回ぐらい
    三十回、四十回のひともざら
    なんという少なさだろう
    もっともっと多くを見るような気がするのは
    祖先の視覚も
    まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
    あでやかとも妖しとも不気味とも
    捉えかねる花のいろ
    さくらふぶきの下を ふららと歩けば
    一瞬
    名僧のごとくにわかるのです
    死こそ常態
    生はいとしき蜃気楼と (64~65頁)

 

 咲き始めた花に誘われて歩いていると、花の終わりが予感される。間もなく満開の時を迎える桜は、一夜の雨風で桜吹雪となって散っていく。あでやかにも、妖しくも、不気味にも見える桜の花は一瞬、人間のいのちもつかの間の蜃気楼。そのことが分かっているからだろう。誰もが桜の花との短い出会いに、須臾の生を重ね合わせて、移りゆく時を惜しむのだ。
 桜の花を見るのは、私だけではない。茨木が言うように、すでにいない「祖先の視覚」も入りこんでいる。祖先が生まれる前の歴史も刻みこまれている。現在の知覚は、全過去の凝縮体として実現される。目の前の桜との邂逅には、悠久の時の流れが合流しているのだ。

 

 長谷川は、この詩に対して、「桜三題」と題した散文をつけている。長谷川の目には、この詩で茨木が、「桜を自分の手元に引き寄せるのではなく、自分が桜のほうへと出ていって桜の世界に溶け入ろうとしている」(66頁)と映る。長谷川は、「読むうちに、わたしも桜のほうに出ていきたくなった」(同頁)として、茨木の「さくら」に誘われるように、三題話(西行の歌、坂口安吾の小説、法隆寺夢殿の枝垂れ桜)へと筆を運んでいる。長谷川は、「叙景の美しさより作者の素直な心の動きの見てとれるのが西行歌の魅力だ」(67頁)と評して、「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはず成にき」、「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」、「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」他、3歌を引用している。
 「桜の森の満開の下」という坂口の小説は、「妖しいまでに濃厚に咲く桜」(68頁)と、男女のおどろおどろしい情念の葛藤を重ね描いた傑作だ。梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という有名なフレーズに刺激されて書かれた。この文章は、一度聞いたが最後、その映像を喚起してやまない。
 長谷川が毎年目にする法隆寺の枝垂れ桜は、木のない中庭に一本だけたたずんでいる(69頁参照)。吉野山の千本桜も見事だが、悠久の時の重みに耐えるかのように枝を大きくしならせる孤独な桜の姿は長谷川の心を強くとらえる。
 彼らだけではない。われわれにも一人一人に特別な桜があり、その桜をめぐる思い出がある。茨木の詩と長谷川の散文は、あらためてそうしたことを思い起こさせるきっかけとなってくれる。
 感情のゆれや、抒情的なこころの動きを自由自在に詠う詩と、論理性を重視する哲学とは相容れないように見える。しかし、両者は、表現形式は違っていても、同じ事柄に向き合っている場合も少なくない。本書のタイトルの一部となっている「魂」は、古来、哲学の重要なテーマであり、ペトラルカやゲーテをはじめとする詩人のテーマでもあった。
 ふとした瞬間をやわらかいことばで掬い取る詩が哲学的思索の起点となり、あたらしい軌跡を描き始める。それはまさしくデュオと呼ぶにふさわしい営為なのだろう。

 

人物紹介

長谷川 宏 (はせがわ―ひろし) [1940-]

 

1940年、島根県 平田市に生まれる。東京大学文学部哲学科博士課程修了。1970年、埼玉県所沢市に私塾「赤門塾」を開く。以後、塾で子どもたちに勉強を教えながら、哲学研究に従事。主な著書に、『新しいヘーゲル』『丸山眞男をどう読むか』(ともに講談社現代新書)、『同時代人サルトル』(講談社学術文庫)、『哲学者の休日』(作品社)他。主な翻訳書に、ヘーゲル『精神現象学』『美学講義』『法哲学講義』(作品社)、『歴史哲学講義』(岩波文庫)他。


―本書より

谷川 俊太郎 (たにかわ‐しゅんたろう) [1931~ ]

詩人。東京の生まれ。哲学者谷川徹三の子。昭和27年(1952)、初の詩集「二十億光年の孤独」で脚光を浴びる。以降、詩作のほか劇作、作詞、評論、海外児童文学の翻訳などで幅広く活躍。詩集「六十二のソネット」「世間知ラズ」など。

"たにかわ‐しゅんたろう【谷川俊太郎】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-07-18)

茨木 のり子 (いばらぎ‐のりこ) [1926~2006]

詩人。大阪の生まれ。本姓、三浦。昭和22年(1947)ごろから詩作を始め、昭和28年(1953)川崎洋らと「櫂(かい)」を創刊。ヒューマニズムにあふれる詩風で知られる。代表作「わたしが一番きれいだったとき」「倚(よ)りかからず」など。

"いばらぎ‐のりこ【茨木のり子】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-07-18)

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