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人間とはなにか―マーク・トゥエインとボーヴォワール―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 「人間とはなにか」という問いは、古くてあたらしい。その問いをめぐって、多種多様な人間論が書かれている。今回は、そのなかから、マーク・トゥエインとボーヴォワールの見方に焦点をあててみよう。

 マーク・トゥエイン(1835~1910)は、米国中部のミズーリ州の名もない開拓村に生まれた。1880年代には、『トム=ソーヤーの冒険』(1876)『ハックルベリー=フィンの冒険』(イギリス版1884,アメリカ版1885)などのだれもが知る少年向けのやさしい読み物の体裁を借りながら、そこに文明と自然の対立、人種問題、人間の成長といった重要なテーマを盛りこんだ。ヘミングウェイは、すべての現代アメリカ文学は、『ハックルベリー=フィンの冒険』に由来すると述べた。マーク・トゥエインは、今日でも、詩人のホイットマンと並んで、もっともアメリカ的な作家として高く評価されている。

 マーク・トゥエインは、1890年代には、新案特許への無謀な投資の失敗で莫大な借金を背負い、さらには、長女を脳膜炎で亡くし、末娘は癲癇発作に苦しみ、妻も重病に罹るなど、家族の不幸も重なった。その結果、次第に厭世的な考えに陥り、人間不信も高じて、暗鬱なペシミズムへと傾斜していく。その理由を外的要因のほかに、生得的とも言える内在因説に求める見方もある。

 このようなマーク・トゥエインの作家としての軌跡は、『我輩は猫である』という初期のユーモア小説から出発して、後年には『こころ』、『明暗』といった深刻な小説を書き始めた夏目漱石を思い起こさせる。ふたりとも、晩年には、初期とは対照的な世界を描いた。


 1906年に書かれたのが『人間とは何か』(中野好夫訳、1991年[第27刷])である。人間の自由意志を否定し、人間も機械と変わるところはないと断じた、きわめて悲観的な色彩の強い対話編である。原稿を見た病妻と娘は激しいショックを受けた。原稿は妻の死後に活字になったが、一般公刊は見送られ、250部の私家版のみが匿名で出版された。作者の死後、1917年になってようやく公刊された。

 本書は、1.人間即機械・人間の価値、2.人間唯一の衝動―みずからの裁可を求めること、3. その例証、4.訓練、教育、5. 再説人間機械論、6. 本能と思想、結論からなる。人間は自由ではない、機械に過ぎないのだと主張する老人と、それに反対する青年との間の対話という体裁をとっている。自分の人間としてのプライドを傷つけられた青年が老人に必死にあらがっている。

 1のなかから、老人の見解が明示された箇所を引用してみよう。「人間即機械―人間もまた非人格的な機関に過ぎん。人間が何かってことは、すべてそのつくりと、そしてまた、遺伝性、生息地、交際関係等々、その上に齎らされる外的力の結果なんだな。つまり、外的諸力によって動かされ、導かれ、そして強制的に左右されるわけだよ―完全にね。みずから創り出すものなんて、なんにもない。考えること一つにしてからだな」(13頁)。老人によれば、われわれは、思考も含めて、すべて外部からの力によって動かされてするにすぎない。自主的な思考の可能性を信じるひとは、「自分でよく考えて行動しなさい、思慮分別こそが肝心だ」と説くが、老人は正反対の意見を述べる。老人によれば、思考とは、無数の書物や会話、祖先たちの心や頭脳から流れ出して、われわれの頭脳に注ぎこまれたガラクタの集積にすぎない(13頁参照)。それらをまとめあげるのは、われわれが自分でつくりあげたものではない、心という機械の働きなのである(14頁参照)。「人間の頭ってものは、なに一つとして新しいものなんか考え出せるもんじゃない、そんな風にできてるんだよ。外から獲た材料を利用するだけの話なんで、要するに機械にすぎないんだよ。ただ自動機械みたいに運転するだけなんで、意志の力で動いたりするんじゃない。自分で自分を支配する力なんかもちろんないしその所有者にだって命令する力はない」(17頁)。 意志の力と自由、主体的な選択の可能性を信じるひとには、極端な暴論としか見えないだろう。

 2では、老人は、われわれの行動の根底に潜むものについてこう語る。「揺籃から墓場まで人間って奴の行動ってのは終始一貫絶対にこの唯一最大の動機―すなわち、まず自分自身の安心感心の慰めを求めるという以外には絶対にありえんのだな」(29頁)。 老人によれば、他人のために自分を犠牲にしたり、他人に献身的につくしたりする人間の行動は、自己満足のためになされているにすぎない。 夏目漱石は、人間にとって根が深いエゴイズムの問題に取りくみ、晩年には、我執の道との訣別を「則天去私」ということばにこめた。老人は、人間がエゴイスト以外のなにものでもないという見方に固執している。

 3では、「外からの影響」(71頁)の一例として人間関係が話題になっている。老人はこう語る。「生れてから死ぬまで、人間ってものは、醒めてるかぎり、たえずなんらかの教育を受けてるわけだよ。そしてその教育者の中でも第一番は、いわゆる人間関係って奴だな。彼の心、感情を形成し、理想をあたえ、そしてある人生軌道に向かって旅立たせ、またそれをちゃんと守らせるのは、一にかかってその人間的環境さ」(同頁)。老人によれば、われわれの心、感情、理想、好悪、政治意識、趣味、道徳、信仰などは周囲からの影響によって形成されるものであり、自分で作り出すものではない(同頁参照)。われわれは、環境の色に応じて姿が変わるカメレオン的な存在なのである。老人は、環境から影響されるという受身の側面のみを一方的に強調し、環境に影響を及ぼしていくという能動的、主体的な側面など存在しないと考えている。

 5は人間機械論の再登場だ。心は自動機械のようなもので、コントロールなんて無理だという主張が繰り返される。老人は言う。「心って奴はな、人間からは独立してるんだよ。心を支配するなんて、そんなことのできるはずがない。心って奴は、自分の好き勝手で自由に動くものなんだな。君たちの意向などお構いなしに、なにを考えつくかわからんし、また君たちの考えなどお構えなしに考えつづけることもする。そのかわりには、投げ出すのもまた勝手だな」(106頁)。「心って奴はあくまでも機械、完全に独立した自動機械なんだ」(111頁)。自由に動く心はわれわれから独立した存在だという主張だ。夢も心が自由に生み出す働きの例として持ち出されている。たしかに、われわれが眠っている間に、心は自由自在に夢の世界を繰り広げる。夢は心の自動織物なのだ。モームの見方には一理ある。

 6では、人間の自由意志を、「欲することを実行する際に、一切拘束を受けないこと」と定義するならば、そんなものは存在しないと老人は断言する(145頁参照)。人間には心の作用によって起こる自由選択のみが存在するのであり、この選択は「機械としての心」がわれわれに促してくるものである。われわれは、心に隷属する存在にすぎないというわけだ。

 結論で、「あなたは人間を機械にしちまいましたよ」(167頁)と反論する青年に対して、老人は、人間の手や体内の血液の流れ、心の作用などはすべて神の創り出したものだと述べる(167~168頁参照)。宗教的な決定論がおちとなっている。三角形の内角の和が180度であることは決定しているように、人間の行動も決定しており、人間は自由ではないと見なしたスピノザとの類縁性が見られる。「すべては神の御心のままだ」とすれば、人間の自由や責任の問題は消えてしまう。しかし、法が支配し、裁判で罪と罰が決まる人間社会において、われわれは犯罪を神のせいにしてすますことはできない。

  1916年に出版された『不思議な少年』(中野好夫訳、岩波文庫[改版第1版]、1999年)は、生前のトゥエインが3度までも書き直し、結局未完に終わった小説原稿の編集版である。トゥエインが陥ったペシミスティックな考えが随所に描かれている。

 

 ボーヴォワール(1908~1986)の『人間について』(青柳瑞穂訳、新潮文庫、1955年)は、36歳の時に出版されたものである。男性、女性という性差別の問題にはまだ触れられていない。原題は、「ピリュウスとシネアス」である。ピリュウスは、紀元前3世紀のエピロス王、シネアスはその側近の名前である。本書は、両者の対話から始まる。

 ボーヴォワールは、ソルボンヌ大学で哲学を学び、高校の哲学の教師になった。1929年には、作家、哲学者のサルトルと2年間の契約結婚を結んで、話題になった。その後も二人の関係はサルトルの死まで続いた。『別れの儀式』(人文書院、1983年)のなかで、ボーヴォワールはこう述べている。「彼の死は私たちを引離す。私の死は私たちを再び結びつけはしないだろう。そういうものだ。私たち二人の生が、こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ」(157頁)。

 1949年に、世界的な反響を呼んだ『第二の性』が出版された。ボーヴォワールは、女性であるとはどういうことか、女性は男性の眼にどう映っているかを理解するためにこの本を書いた。1960年代から始まる第二波フェミニズム運動に強い影響力をおよぼした。

 1970年には、『老い』が出版された。本書では、老いるということの生物学的、歴史的、哲学的、社会的な側面が徹底的に考察されている。本書はまた、老人の書いた文章の膨大な引用を通じて、老年期の美しい、あるいは醜い、惨めな姿を浮き彫りにしており、当時としては画期的な老人論である。

 これら2冊の成熟した大著と比べれば、『人間について』は、まだ「青い果実」でしかないが、青年ボーヴォワールの考え方が網羅的に展開されている。第1部は、「カンディッドの庭」、「瞬間」、「無限」、「神」、「人間」などからなり、第2部は、「他人」、「献身」、「交流」、「行動」などからなる。

 「序」にあたる文章のおしまいで、ボーヴォワールは「人間の尺度はなんであるのか」、「人間はどんな目的を立てることができるのか」、「人間にはどのような希望が許されるのか」という問いを立てる(12頁参照)。マーク・トゥエインの語るペシミスティックな人間論では、現在に影響をおよぼす過去が決定的な位置を占めているが、ボーヴォワールは人間を未来との関係で前向きにとらえている。目標や理想を設定し、その実現のために不断の努力を惜しまず、現在の自分を乗り越えていくのが人間にふさわしいというオプティミスティックな考え方だ。

 本書では、ボーヴォワールがサルトルと共有した人間観が幾度となく強調されている。サルトルによれば、人間とは、自分自身でそうなろうとするもの以外のなにものでもない。人間は自分で自分を創造していく存在なのである。神があらかじめ私のあり方をきめているのではない。私は自分のあり方を自由に選択して、責任をもって生きていかなければならない。

 ボーヴォワールも同様の考え方をしている。意識する存在としての人間は、机や椅子などの事物とは根本的に異なっている。人間は、どの方向をめざし、何を目的にして生きるかを意識する存在であるが、方向や目的を他人に決めてもらうわけにはいかない。方向を決めるのは、「ほかの誰でもない、この私である」という主体的な決断と、責任を伴う行動が求められる。病気や難病、怪我などによって意のままに行動できない場合や、戦争などで拘束され、行動の自由が奪われる場合などは考慮されてはいない。

 ボーヴォワールは、どこまでも個人の自由を肯定し、意志によって生きる主体を擁護している。さらにまた、意志を通じて不断に自分を乗り越えていくこと(超越)を強調する。「人間の条件は、与えられたものをことごとく追い越すことです」(33頁)。人間は、目的を設定し、希望をもって未来へ向かう存在とも見なされている。「瞬間」のなかでは、こう述べられている。「一つの恋愛を生きることは、その恋愛を横ぎって、新しい目的―家庭、仕事、共通の未来―に向かって身を投げることです。人間が企てである以上、人間の幸福は、人間の快楽と同様、企てでしかありえません」(34頁)。企てるとは、私が特定の目的をめざして、自発的に動くということである。

 ボーヴォワールにとって、私の行為は、完全に私に属する唯一の現実である。私は、私のすることを、他人から命じられてするのではなく、ただ私の決断にもとづいて行うのである(18頁参照)。しかし、だからといって、私の行為は自己完結しているのではない。私は他者へと超越する存在なのである。「わたくしは一つの物ではなく、わたくしから、他人に向かう一つの計画であり、超越性であるという事実から、わたくしはこの絆を創るのであります」(18頁)。「わたくしは物ではなく、自発性なのです。希望し、愛し、欲望し、行動する自発性なのです」(18~19頁)。マーク・トゥエインが視野にいれていない「自発性」こそが、ボーヴォワールの思想の鍵語である。

 本書では、私と他人との関係について、献身や人間的な交わりなどと関連づけても考察されている。ボーヴォワールは、「私は他者に対してなにをなしうるのか」、「他者は私を救済できるのか」、「私は他者に身を捧げることができるのか」といった具体的な問題を投げかけながら、つぎからつぎへと湧きあがる思考を、若さゆえのやや性急な仕方で書きとめている。

 今回取りあげた2冊は、「人間とはなにか」という問いに、両極とも思える答えを出している。われわれが自分なりにこの問題を考えるときに、これらふたつの座標のどこに自分が位置しているのかをまず考えてみるといいかもしれない。
 

人物紹介

マーク‐トウェーン【Mark Twain】[1835~1910]

米国の小説家。本名、サミュエル=ラングホーン=クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens)。ユーモアと社会風刺に満ちた作品で名を成すが、後年、ペシミスチックな作風に転じた。作「トム=ソーヤーの冒険」「ハックルベリー=フィンの冒険」など。
"マーク‐トウェーン【Mark Twain】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-09-21)

ボーボワール【Simone de Beauvoir】[1908~1986]

フランスの女流小説家・批評家。実存主義者で、サルトルの伴侶。小説「招かれた女」「他人の血」、評論「第二の性」、自伝「娘時代」など。
"ボーボワール【Simone de Beauvoir】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-09-21)

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