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推薦文
:和田 渡 (阪南大学 名誉教授)
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フランソワ・チェンの『さまよう魂がめぐりあうとき』(辻由美訳、みすず書房、2013年)は、小説「さまよう魂がめぐりあうとき」、「ディアローグ(対話) フランス語への情熱」、「縁組した言葉で作家になること―フランソワ・チェンに訊く」からなる。
フランソワ・チェン(1929~ )は、中国山東省済南市出身。本名は、程紀賢(程抱一は筆名)。日中戦争の戦火を逃れて四川省に移り住み、幼年時代に、戦争の残虐さ、暴力と死、飢餓などを体験した。15歳で文学に目覚め、中国文学、フランス、ロシア、イギリスの文学を読みふけった。チェンの『魂について ある女性への7通の手紙』(水声社、2018年)の訳者、内山憲一の「死と生、そして魂―『解説』にかえて」によれば、1948年に、ユネスコに勤務していた父が帰国し、政治的なデモに参加して逮捕された息子の身を案じて、任務先のパリに同行させたという(162頁参照)。19歳のチェンは、フランス語をまったく知らないままパリに着いた。父の帰国後もパリに残り、さまざまな肉体労働で食いつないだ。再渡仏した父の斡旋で得たユネスコの奨学金が切れると、赤貧生活に戻った。そのなかで、図書館に通い、コレージュ・ド・フランスで聴講した。中国語による詩作、フランスの詩の中国語訳にも打ちこんだ。
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聴講クラスでの発言がきっかけで、中国学の専門家のポール・ドゥミエヴィルに認められ、「中国言語学研究所」で研究する道が開かれた。その後、7世紀の詩人、張若虚の作品を分析した論文が、ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァらに評価された。1970年代には、『中国の詩的文学』(1977)と『空と充実―中国の絵画的言語』(1979)を著した。これらが契機となって、ジャック・ラカン、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナスらと交流するようになった。中国思想に強い関心をもっていたラカンとは数年間、定期的な議論の時間をもった。その後も、小説、随筆、詩、美術評論、翻訳などの分野で幅広く活動し、2002年には、アジア人としては初めてアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。
「さまよう魂がめぐりあうとき」は、紀元前3世紀に起きた秦の始皇帝暗殺未遂事件を題材とした小説である。合唱と、春娘、荊軻、高漸離の3人のモノローグが反復される全5幕からなり、これは西洋の古代劇の形式にのっとっている。
第一幕の冒頭の「合唱」で、この小説の主題が、3人の間の「変わらない友情、ゆるぎない愛」(8頁)であると語られる。30年のときを経て、始皇帝の暗殺に失敗して殺された荊軻と高漸離の魂が春娘のもとに戻ってくる。「満月の夜になると、彼らの魂はここに、彼女のもとにいる。まず、ほとばしる言葉の波がぶつかりあい、少しすると、より秩序だったやりとりになるが、それはあくまでも激しく、あくまでも熱く燃えている」(9頁)。「合唱」はこう閉じられる。「聞き手のわたしたちにもとめられるのは、彼らに付き添い、彼らがこの壮大な物語の舞台裏をくまなくおもいおこす助けになることだ。さあ、三人に言葉を託そう。三人がそれぞれどこからやって来て、どうして知り合ったのか語るのに耳を傾けよう」(10頁)。
「春娘」では、春娘が自分の過酷な生い立ちと、「筑」という楽器の見事な弾き手である高漸離との出会いについて語る。
「高漸離」では、筑の奏者になるまでのいきさつと、春娘との出会いが語られる。「彼女のすべてが唯一だった。堕落しきった世の中に、これほどの美が存在していて、偶然が旅の途上でわたしと会わせてくれた、この世で!」(21頁)。おしまいで、荊軻の出現による運命の変転が告げられる。
「荊軻」では、演奏の合間に顔をあげた高漸離と荊軻の最初の出会いと、給仕をする春娘を目にした感動が語られる。「『この老いた大地が、まだこんな優美な花を咲かせることができるのか!』、人びとのざわめきの中でわたしは大胆にもそう叫んだ」(26頁)。
その後も、春娘と高漸離のモノローグが続く。3人の出会いの幸福、愛と友情が語られる。しかし、この交わりは長くは続かない。春娘は、王の側女として宮廷に連れ去られたのである。
続く第2幕では、荊軻が始皇帝暗殺を決意するまでの過程が、第3幕では、その失敗が語られる。第4幕では、始皇帝暗殺に失敗した高漸離に対する拷問と死刑執行までが語られる。
第5幕の「合唱」はこう始まる。「傲慢、野望、独裁の陶酔、それらすべてが人間にとりつき、狂気へとかりたてる。人間は非人間となり、非人間は魔物となる。暴力は暴力を生み、恐怖を糧として生きる者は、恐怖により破滅する」(105頁)。このあとに秦の専制君主の生涯が語られる。
「春娘」は、年老いた春娘のモノローグだ。「わたしはまだこの地上にいるのに、自分のなかにやどしているふたりの人間との分かち合いを経験する、規則的な間隔をおいて満月の夜になされる分かち合い。わたしたちは三人がたどった、光と闇とが絡みあう道程をふたたびたどる。めいめいが自分の生きたこと、感じたことを語りえた。めいめいがすべてを語りえた、言葉にならないもの以外は」(109頁)。モノローグは、「高らかに響け、再会した魂の歌よ!」で終わり、「再会した魂の歌」が16ページに渡って続く。全篇を通してみなぎる緊迫感が円環的構造のうちに閉じられ、読者はいまもなお3人の魂が交感し合っているかのような、時間を超えた余韻のうちに残される。
「ディアローグ(対話)」には、チェンの回想と言語論、比較文化論が含まれている。「フランスに来てから少なくても二十年間、わたしの生活を刻みつけたのは、矛盾と分裂にみちた激しい奮闘だった」(131頁)。フランス語の勉強に熱を入れる時間が増えても、中国語は消えなかった。「母語はいわば弱音化されて、忠実にして密かな話し相手となった。そのささやきは、わたしの無意識をはぐくみ、変換すべき映像、満たすべき郷愁をひっきりなしにあたえてくれるだけに、頼りがいのある話し手」(131~132頁)。チェンは、「縁組した言葉」(132頁)への愛情と母語への信頼にみちた「言語学的冒険」(同頁)のただなかで、両者の対話の可能性を探求した。
中国に生まれたチェンにとって、中国語は自然に身についた。しかし、フランス語は、「隙間なく構築され、厳重に監視された、容易には越えがたい障壁をはりめぐらせている体系」(132頁)にほかならず、その言語を学ぶということは、その障壁をひとつずつ乗り越える苦闘であると同時に、そのことを通じてあらたな自分をつくりあげていく作業でもあった。「言語を手段として、言語を通じて、わたしたちは自己を発見し、自己を表現し、他の人たちとの絆、生きとし生けるものの世界との絆をむすび、信仰心をもつ人たちならば、人間を超越した存在と交わるのである」(133頁)。
チェンにとって、「言語学的冒険」とは、自分の身体、知性、理解力、想像力のすべての動員を必要とするものであった(133頁参照)。「語彙と文法の規則を学べばすむものではなく、感じとり、知覚し、論理づけ、たわごとを言い、誓い、祈る、つまり、存在することを学ぶのだ」(同頁)。「ほんとうに学ぶこと、つまり全身全霊を傾けてその言語にとりくみ、その言語が生存、あるいは創造の手段となるほどに、自己の運命のすべてをかけることは、とてつもない挑戦に類する。そんな企てがどれほどの努力を要するかは容易に想像できる。忍耐と根気、決心と情熱が必要だ。わたしが直面したのは、そうした冒険だった」(133~134頁)。チェンは、この冒険を「『理性的恋愛結婚』」(134頁)と呼んでいる。
チェンはこうも述べている。「フランス語に全身全霊をそそいだことで、自分の過去をかたちづくっているものから、自己を離脱し、個々が独立している表意文字から、連結型の表音文字への移行という、きわめて大きな差異をのりこえなければならなかった。この離脱、この差異は、途中で自分を失わせることなく、わたしにふたたび根をあたえてくれた。(中略)その新しい言語によって、(中略)あらたにものごとを名づけるという行為を成し遂げたからだ」(187頁)。チェンは自分自身のことをこう表現している。「いまや、他の言語が棲みついていながら、内的対話は途絶えることなく、地下で交わる水流にいる人間は、つねに自己でありながら、自己でない者、もしくは自己の前を行く者でありつづけるという恵まれた状況を生きている。ものごとと遭遇するとき、彼は『重層音響』もしくは『重層映像』によるアプローチを享受しているような錯覚にとらわれる。その視野は必然的に多次元のものとなる」(187~188頁)。多言語主義の重要性が言われて久しいが、チェンのこうした文章は、それを内的に深く生きることのみごとな証言となっている。
チェンによる中国思想の要約が示唆に富む。道教の流れを汲むひとにとっては、生きているものすべてを活気づけ、結合する「気」という概念が重要である。「気」には、陰、陽、沖気という三つのタイプがあるという(136頁参照)。これに対して、儒者たちにとっては、人間を中心にした天-地-人が根本概念である(同頁参照)。道教と儒教に共通するのが「道(タオ)」という概念である。中国思想は、「気」に依拠した宇宙観をもち、その核心は、人間と万物、自然と宇宙、「天」と呼ばれる至高の存在と対話することだという(137頁参照)。
他方で、チェンは、フランス文学にみられる人間の魂の鋭利な分析や洞察を念頭に置きながら、中国思想をこう批判する。「この思想には、周囲の環境から人間を十分に切り離し、その特異性にかかわるすべてのことを徹底的に探究し、とりわけ、その存在の十全性と唯一性を保障するということをしてこなかったのではないか」(192頁)。西洋の思想についてはこう指摘する。「西洋が自律的な地位にひきあげたその主体は、度を越した個人主義にゆきつき、(中略)ときにはふしぎなほどの脆さを露呈する。自己が属する創造された宇宙との結びつきをもたず、いわば原初の根から切り離されているからだ」(193頁)。ふたつの言語を生きぬき、相反する側面をもつ中国とフランスの文学や詩と格闘してきたチェンならではの発言である。
チェンは、紀元前4世紀頃の中国とインド仏教の出会いについても語る。「罪の感覚、魂の救済、瞑想における深層や段階の概念、すべてにわたる慈悲の実践」(139頁)などを通じて、仏教は中国思想を豊かなものしたという。他方で、仏教も道教の影響を受けて、禅の宗派が生まれた。その後も、イスラム教やキリスト教が流入し、中国には人類のおもな教義のすべてが共存している(140頁参照)。偏狭な一神教とは異なる、ある意味で非宗教的な中国という国ならではの寛容さがうかがえる。
「ディアローグ(対話)」は、母語とは異なる言語を学ぶとはどういうことか、自国や他国の伝統や文化、思想を探究することがどういう経験であるかについて、われわれに思考を迫るずっしりと重いエッセイである。
「縁組した言葉で作家になること―フランソワ・チェンに訊く」は、訳者の辻由美によるチェンへのインタビューをまとめたものである。
辻は、チェンにとってフランス語を学ぶということは、会話や読書、旅行のためではなく、「その言語が自分の血肉となり、生存と創造の武器になるほどに習得することを意味する」(205頁)と述べる。チェンはこう語っている。「『はじめのころは、フランスの詩的言語に入り込むのは容易なことではなく、フランス語で詩を書くのは困難でした。(中略)時がたつにつれて、その困難さ自体がわたしの想像の世界へと感受性をはぐくむようになりました。そうなるまでに二十年から三十年の年月が必要でした。(中略)フランス語の詩集を出版しはじめたとき、フランスに来てから四十年の年月が過ぎていたのです』」(205頁)。
チェンは過去を振り返り、フランス語のなかに完全に入りこむことによって、内的な変化を成し遂げることができたと語る(207頁参照)。パリでの生活によって変身し、自分の深奥にある中国そのものも変化したという(208頁参照)。チェンによれば、フランス語は「『距離をおくことに秀でた言語』」(同頁)であり、それを学んだおかげで、「『ものごとに対して距離をおくこと』」(同頁)を知ったという。「『中国語だけで書きつづけていたとすれば、わたしは感覚や感情の表現にとどまっていて、人物像をえがきだす資質についてはそれほどの可能性をもちえなかったでしょう』」(209頁)。
インタビューのおしまいの方で、チェンは、西洋で暮らし、他の言語で書くという恩恵にあずかった自分だからこそ、それを活かしてなにかをし、なにかに貢献しなければならないと語る(210頁参照)。「『他の仕方で考え、他の仕方で存在しうる人間にならなければならないのです』」(210頁)。異国に身を置くということは、異国を内側から見つめる経験を生きることであり、同時に、母国を外側から見つめなおす経験を生きることでもある。しかし、それにとどまらず、自分のなかに入りこんでくるふたつの言語、ふたつの文化との出会いの経験を検証することでもある。「『わたしはあくまでも中国人でありながら、他の人間なのです。かぎりなく自分であり、かぎりなく他者なのです』」(210頁)。「わたしは一個の他者である」という、詩人のランボーのことばが思い起こされる。内と外、主体と他者の絶え間ない往復運動からのみ創造の火花は生じてくる。
同じ著者による『死と生についての五つの瞑想』(内山憲一訳、水声社、2018年)もぜひおすすめしたい一冊である。死と生についてのチェンの語りが心に響いてくる。静かに語りつげられることばの意味は深く、豊かだ。
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フランソワ・チェン 【François Cheng】[1929-]
程抱一、フランスの作家・詩人・書家、1929年、中国江西省南昌に生まれる。南京大学で学業を修めた後、1948年、渡仏、1960年代からパリ東洋語学校で教えるかたわら、フランス詩の中国語訳、中国詩のフランス語訳をおこなう。1977年、『中国の詩的言語』により、フランスの読書界に現れる。以降、詩集のほか、詩論、書論、画論など著書多数があり、多くの言語に翻訳されている。初めての小説である『ティエンイの物語』は高く評価され、フェミナ賞を受けた。2001年、アカデミー・フランセーズよりフランス語圏大賞を受け、2002年、アジア人として初のアカデミー・フランセーズ会員に選出されている。―本書より (なお、中国語およびフランスの出版社等の情報では出生地は山東省済南市とあり)
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