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さわる経験へ―触覚の讃歌―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 広瀬浩二郎の『世界はさわらないとわからない 「ユニバーサル・ミュージアムとは何か」』(平凡社新書、2022年)は、コロナ禍の社会で、「さわらない・さわれない・さわらせない」(74頁)という触覚拒否の傾向が強まるなか、さわらずには生きていけない者としての立場から、「『さわる』ことの意味」(5頁)を追求した本である。
 広瀬は1967年に東京に生まれる。13歳のときに失明し、筑波大学付属盲学校から京都大学に進んだ。専門は日本宗教史。現在(2022年)は、国立民俗学博物館准教授である。
 本書は、「書く―手と頭を動かす」と「話す―口と体を動かす」の2部構成である。広瀬は、「『さわらない人々』は、世界に偏在する貴重な事物の感触を忘れている」(7頁)と述べて、さわることの重要性を力説している。本書は、事物にさわる経験そのものへの招待である。
 第1部の「1 失明得暗―新たな『ユニバーサル』論の構築に向けて」のなかで、広瀬は、失明と得暗が表裏一体であり、明の喪失は、同時に暗の獲得だと説く。しかし、近代化が進むにつれ、視覚への過度の依存と比例して、得暗の価値は顧みられなくなった(16頁参照)。前近代には、琵琶法師、イタコなは、得暗によって「見えないからできること」で勝負し、個性を発揮しる人々がいたが、その後、彼らの活躍の場は狭められ、視覚を使えない障害者として差別されるようになった(25~28頁参照)。

さわる経験へ

 「2コロナ禍と特別展―二〇二〇年を振り返る」は、広瀬らが近代文明への挑戦を意図して開いた「ユニバーサル・ミュージアム―さわる! “触”の大博覧会」の内容紹介である。「『見る文化からさわる文化への転換』」(56頁)をテーマとして掲げ、「『さわるとわかる、わかるとかわる!』」(37,38頁)とうたう。この特別展では、セクション1から5までが暗い展示であり、最後の6のみが明るい展示である。「風景にさわる」、「歴史にさわる」、「音にさわる」などのテーマからなる暗い展示セクションでは、視覚情報を制限し、触覚に集中できる環境が用意されている。広瀬は来場者に、見えないことの不自由を感じることではなく、見ないことで得られる解放感を味わってほしいと望んでいる(37頁参照)。明るい展示セクションでは、視覚と触覚を通して理解できる展示物が置かれている。暗いセクションで視覚を遮断され、触覚を意識するようになった来場者が、明るいセクションに移ってなにを経験することになるのか。広瀬が人々に求めているのは、「さわるとわかり、わかるとかわる」経験である。
 視覚優位・視覚偏重の現代社会のなかで、従来の博物館は、「『視覚文明の実験装置』」(112頁)であり、視覚障害者にとっては縁遠い場所であったが、ユニバーサル・ミュージアムは、「脱近代の非視覚型文明を開拓するための壮大な実験場、接触と触発の連鎖を促すコミュニケーションの拠点」(113頁)とならなければならないと、広瀬は述べる。この拠点は、われわれがさわることの大切さ、豊かさに気づく場所として構想される。広瀬によれば、「さわるとは、全身の感覚を総動員して事物の本質に迫る行為」(57頁)である。しかし、目が見える人の生活においては、ものに触れて感じる、考えるという触覚を起点とする経験は前面には出てこない。目が見えていても、実は見たいものだけを見ており、ものを見過ごしたり、見落としたりしているのに対し、触れることはものへの豊かな想像力と好奇心を呼びさます。
 第2部では、いくつかの対談が収録されている。「2 障害/健常境界はあるか―高橋政代との対話」は、障害についてのひとつの見方を提起している。高橋はこう述べる。「『見える人、見えない人』という区分ではなく、いろいろなタイプの視覚障害がグラデーションのように地続きになっているのが現状です。これが社会で受け入れられ、視覚障害を当たり前にカミングアウトして、悩まず白杖を使えるようにすることが大事です」(162~163頁)。広瀬はこう答える。「一般の人たちも『障害者は別世界の存在ではなく、地続きで自分たちとつながっている』との意識、つまり『他人事』ではなく、『自分事』としてとらえることが大切でしょう」(163頁)。高齢化が進めば、病人も、視覚障害の人も増える。自分だけは例外だと楽観視することはできない。障害と健常に明確な境界など存在しないのだ。
 「5 古典芸能ルーツと未来―味方玄との対話」は、観世流能役者との対談である。広瀬は、「『目の見えない者は、目に見えない物を知っている』」(200頁)と言う。たとえば、盲目のイタコは、視覚に頼らない強みを活かして、肉眼では見えない霊界にアプローチできる(同頁参照)。シャーマン(呪術者)は、目を閉じて擬似盲目状態を作り集中力を高めて霊を招く。能面をつけて舞う能役者の場合も、視野の制限によって五感が練磨され、集中力が増すのではないかと、広瀬は尋ねる。味方は、「制約があることで何か特別な力が宿るような気がしますし、自分の意思で舞っているというよりは、身体が自然に動き、舞わされているような感覚にもなります」(201頁)と答えている。イタコの場合は、手で数珠をまさぐり、呪文を唱えることでトランス状態に入り、目には見えない世界、霊界への扉が開かれる。能の「『葵上』」では巫女が登場し、梓弓を弾き鳴らし、神霊を呼び出すための歌を歌う。梓弓がトランス状態に導くための道具になっており、琵琶にも神霊を招きよせる機能があるという(同頁参照)。触覚と聴覚を通じて「目に見えない世界」が開かれるのである。
 「7 [インタビュー]目で見るものがすべてではない―視覚中心の社会をほぐすために」で、広瀬は触覚擁護論をさらに展開している。広瀬には、視覚にばかりたより、聴覚や触覚の経験がおろそかになっている人が多いと映る(220頁参照)。目の前の事物に目が向いていると、椅子の感触を背中やお尻で気持ちよく感じたり、風の流れや太陽の熱、植物の匂いなどを顔で感じたりする身体の経験が意識されることは少ない(同頁参照)。靴を履く生活では、足の裏で大地と触れて感じることもできない。窮屈な衣服を身につけていれば、本来全身の皮膚で感じるはずの触角は抑圧されたままだ。
 「ユニバーサル・ミュージアム研究会」による興味深い試みが紹介されている。メンバーは、触覚でとらえた信楽の地図を残そうとして、神社の大木や階段、古い登り窯などに粘土を押し当てて型を取り、並べることによって、「触地図=触知図」を作成した(221頁参照)。写真撮影による視覚依存型風景とはことなる世界が開かれたのである。この試みは、視覚優先的な価値観の変更を促すものである。
 「8 [講演録]健常者とは誰か―『耳なし芳一』を読み解く」で、広瀬は、障害がある人とない人、差別する人とされる人、できる人とできない人、文明人と未開人といった単純な二分法に異議を唱えている。健常者を常に健康な人と定義すれば、そんな人はいない。障害者を障害を抱えて生きる人と定義すれば、だれもがなんらかの障害を抱えて生きているだろう。要するに、この種の定義は、人の現実から分離しているのだ。障害者サービスという発想も、健常者の存在を前提にした二分法にもとづいている。
 広瀬は、障害がある人とない人という陳腐な二分法に納得せず、「『見常者・触常者』」(263頁)というあらたな呼称を提案している。世間の大多数の人は「『見ることを常とする人=見常者』」(同頁)であり、触学・触楽を得意とする目の見えない人は「『触常者』」(同頁)である。広瀬によれば、触常者は見常者にはなれないが、目の見える人が触常者になることは可能である。普段、視覚に依存する人が触覚経験の面白さ、豊かさに気づき、その経験を多くの見常者と共有するようになれば、視覚優位の世界観が変わりうると、広瀬は考えている。


 傳田光洋の『第三の脳 皮膚から考える命、こころ、世界』(朝日出版社、2007年)の前半は、すでに知られている皮膚の構造や機能の科学的な説明と、現在明らかになりつつある最先端の知識の紹介であり、後半は科学の領分を踏み出した大胆な仮説の展開である。皮膚のもつさまざまな可能性が探究されている。「はじめに 皮膚にまつわる最近の驚き」、「表皮は未知の思考回路である」、「皮膚は電気システムである」、「皮膚は第三の脳である」、「皮膚科学から超能力を考える」、「皮膚がつくるヒトのこころ」、「皮膚から見る世界」の全6章、「あとがき」からなる。
 傳田は1960年に神戸市に生まれた。京都大学工学部工業化学科を業して、現在は資生堂ライフサイエンス研究センター主任研究員である。
 「はじめに」には、皮膚に無知な人間には驚くべきことが書かれている。皮膚は身体の外側にある臓器であり、色を認識し、色の好みがあり、電気仕掛けのセンサーであり、指先の皮膚は一ミリの百分の一ほどのパターンを識別できるという(10~11頁参照)。傳田は、皮膚という臓器を通して、こころや、命の成り立ちや、人間とは何かについて考え始めていると述べている(11頁参照)。
 第1章は、皮膚の定義から始まり、防御装置、感覚器としての皮膚、皮膚の免疫機能、センサーとしての皮膚、触覚における錯覚、色を識別する皮膚などについての最新の知見を紹介している。
 第2章では、脳と表皮が同じ生まれであると説明される。皮膚には、大脳と同様にさまざまな環境因子を感じる受容体が存在しており、表皮は感じるだけでなく、考えているかもしれないと傳田は言う(54~55頁参照)。表皮はまた電気システムであり、自分の形をモニターし、維持するための電気的環境を自分で作っている(60頁参照)。いくつかの実験結果にもとづいて、表皮細胞による電波発信の事実も紹介されている(64~72頁参照)。
 第3章は、消化管に脳とは別の神経系の働きがあることを実験で確かめた研究者のガーションが、消化管は第二の脳だと主張した話から始まる(90~91頁参照)。皮膚には自分の状態をモニターし、その状態が壊れても、その壊れ具合を顧慮しながら、復元する働きがあることを確認した傳田は、「皮膚は第三の脳だ」と宣言している。
 脳と消化管、皮膚がどのように連関するかを知ることが重要なのだ。傳田は、「脳の機能であると考えられてきた意識を正常に維持するには、骨や筋肉そして皮膚が必要」(102頁)だと述べ、「有機体の全体が脳であり、頭蓋骨の中の器官は、そこで一定の役割を他の臓器と強調しながら果たしているにすぎません」(同頁)とも述べている。傳田は、意識、理性、情動、こころが有機体としての身体との相互作用で生まれるというA・ダマシオの説を指示している。「脳を情報処理システムを内蔵する臓器と見なすならば、脳は全身に分布している」というのがこの章の結論である(103頁参照)。
 第4章は、西洋医学と東洋医学との対話が主題である。東洋医学では、体表の観察が診断のポイントのひとつである。皮膚にはくまなく「衛気」がめぐり、身体を守っており、この気が弱まると体内の異変が皮膚に現れると考えられているからである(108頁参照)。経穴(つぼ)、経絡は、鍼や灸治療では欠かせない部位である。明治鍼灸大学の矢野忠によれば、両者は立体的構造物である。後者について言えば、深部に経脈のラインがあり、その上に筋肉の経絡、最表層に皮膚の経絡があり、この三層は気を通じて相互作用し、皮部への刺激は深部の経脈に達するという(110頁)。特定の経穴刺激による胆嚢収縮は、超音波で観察できる(113頁参照)。皮膚への軽い刺激による臓器や大脳への作用も臨床研究で確認されている(115頁参照)。傳田は、経絡が神経系、循環器系と同様に、全身を統御するシステムとして重要な役割を果たしていると考えている(同頁参照)。
 この章では、科学の枠組みを離れ、超能力、暗黙知、目以外の視覚、気、テレパシーなどについても積極的に語られている。
 第5章は、こころ論である。アトピー性皮膚炎に苦しんだ過去をもつ傳田は、精神的なストレスがその症状と結びついていることを経験した。その経験にもとづき、こころがどこにあるのかという問題に言及している。傳田は、理性も判断も情動もふくめてこころだと見なしたうえで、この意味でのこころは「身体と脳との相互作用」(159頁)のなかで生まれると考えている。脳だけがこころを作るのではないという主張だ。傳田は、解剖学者の三木成夫の説を援用しながら、皮膚がこころを作るのに貢献していると述べる。傳田は、「体性感覚―これには身体全体の姿勢や呼吸、そして皮膚感覚が含まれますが、こころに及ぼす作用については、とりわけ皮膚感覚が大きな影響を振るっているらしいのです」(167頁)と控えめに主張し、逆に、皮膚の障害や皮膚疾患が身体全体やこころに及ぼす影響もあると想定している(同頁参照)。こうした皮膚とこころの相互影響を認めれば、将来的には、皮膚のケアがこころのケアにつながる可能性も高まるだろうと、傳田は期待している。
 第6章では、「ヒトはなぜ体毛を失ったか」、「身体の部位のなかで顔の皮膚がもっとも角層が薄いのはなぜか」といういまだ未解決の問題について、傳田は自分の研究や、何人かの研究者の見解を踏まえながら、想像上の見方を提示している。
 傳田はまた、皮膚の定義を拡張して、「生命と環境との物理的境界が皮膚である」と主張している。原生動物の認識や判断は、皮膚と言うべき細胞膜でなされていることを証明した小島陽之助の功績が評価されている。植物は、苛酷な環境を生きのびるために、皮膚という自分の境界を擬態や防御に、レンズや集光器に使っている。皮膚が感じ、判断し、形を変えているのだ(201頁参照)。
 この章では、表皮細胞のケラチノサイトの培養実験を通じて、皮膚には因果律に支配される外的世界とはことなる、非因果律的現象が見られるという指摘がもっとも興味深い。「皮膚は主体にとってその内的『非因果律的』世界を維持、発展させる境界であり、過去から未来へ流れる外の世界の時間の流れから、『未来から過去へ』流れる世界を護るシステムです」(206頁)。体毛の喪失によって環境と直接対峙することになった皮膚が、これからもヒトの運命を左右するかもしれないと傳田は考えている。
 本書の結びの文章を引用する。「視聴覚が築き上げた人間の社会でも、皮膚感覚は暗黙知として大きな意味をもっています。眼で見た世界では説明がつかないことが、皮膚から考えると理解できる。皮膚が見る世界に思いをはせ、皮膚が語ることに耳を傾けることが、今の私たちに必要だと信じます」(217頁)。


 山口創の『皮膚感覚の不思議 「皮膚」と「心」の身体心理学』(講談社、2006年)は、皮膚感覚の鋭敏で、豊かな働きに注目し、とりわけ「皮膚」と「心」のむすびつきに焦点をあてた本である。山口も、視覚優位の社会で、触覚がなおざりにされている状況に危機感をいだいている。
 山口は1967年生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科で学んだ。現在(2022年)は、聖徳大学人文学部で教えている。
 本書は、第1章から第5章まで皮膚をめぐるさまざまな感覚、痛さ、痒み、くすぐったさ、気持ちよさが順に主題化され、第6章で「皮膚感覚と心」について総括的な見解が述べられている。
 第1章のおしまいで、山口は、対人関係において皮膚はなんらかのメッセージを発しており、皮膚に意識を向けていると、徐々に皮膚の発するサインが読み取れるようになるだろうと述べている。
 第2章は、痛みのメカニズム、ファーストペインとセカンドペイン、痛みの経験と意味、痛みの民族差や性差、痛みと心の発達、痛みの進化論などについてのコンパクトな記述である。
 第5章は、気持ちよさの定義、快・不快のメカニズム、皮膚感覚の快・不快、気持ちやすさを感じやすい部位と触れ方、痛みと快感、性感の気持ちよさ、気持ちよさの進化、快・不快の経験と心の発達などについての情報が満載である。
 第6章では、皮膚感覚が心をはぐくむので、乳幼児期の親子のスキンシップが大切だと説かれる。身体的な虐待やネグレクトを受けた子供は、他人との肌のふれあいを拒絶するか、逆にべたべたした関係をするようになるといったケースが報告されている。大学生154名を対象にしたアンケート調査では、乳児期に母親とのスキンシップが少なかった大学生は、多かった大学生よりも人間不信や自閉的傾向が強く、自尊心も低い傾向にあったと報告されている(206~207頁参照)。アメリカの心理学者のプレスコットは、1970年代に非行少年たちを調査し、身体への接触や触れ合いの不足は、抑うつや自閉的な行動、多動、暴力、攻撃、性的逸脱などの情緒障害の原因になると考えた(208頁参照)。
 興味深い歴史の一端が紹介されている。西欧では、12世紀までは触覚優位の時代が続き、神の救済を得るためには境界の祭壇や柱、聖像などに触れることが大切だと信じられていた。ところが、中世の中期から後期になると、触覚は地位が低下し、罪と汚れをもたらす感覚とみなされるようになった(214~215頁参照)。「触覚は聖性を伝える感覚から、穢れを伝える感覚への凋落したのである」(215頁)。
 日本の場合は、着物の染織や陶芸は触覚の芸術である。板前の出す和食料理、折り紙、また靴を脱ぐ文化ゆえに、畳、木造建築なども触覚が重要な要素である(216~217頁参照)。今日でも、触覚の伝統は受けつがれてはいる。しかし、視覚や聴覚、嗅覚、味覚を満足させる環境が整う反面で、触覚は軽視されていると、山口は見ている。その状況に危機感をいだく山口は、本書をこう結んでいる。「子どもたちに温かいスキンシップを十分に与え、さまざまな自然に直接触れ、自身の痛みも体験する場を与えることで、感性豊かな、人の痛みのわかる思いやりのある人間に育ててゆくことは、私たち大人の責任ではないだろうか」(222頁)。
 コロナ禍になって以来、ただでさえ貶められてきた触覚は、さらに受難の時代に突入した。いまこそ立ち止まって、そのはかり知れない重要性を認識すべきではないだろうか。

   

人物紹介

広瀬 浩二郎 (ひろせ-こうじろう)[1967-]

1967年、東京都生まれ。国立民族学博物館准教授。自称「座頭市流フィールドワーカー」「琵琶をもたない琵琶法師」。13歳の時に失明。筑波大学付属盲学校から京都大学に進学。2000年、同大学院にて文学博士号取得。専門は日本宗教史、触文化論。「ユニバーサル・ミュージアム」(誰もが楽しめる博物館)の実践的研究に取り組み、"触"をテーマとするイベントを全国で実施。21年、国立民族学博物館において特別展「ユニバーサル・ミュージアム―さわる!"触"の大博覧会」を担当。『目に見えない世界を歩く』(平凡社新書)、それでも僕たちは「濃厚接触」を続ける!』(小さ子社)など著書多数。 ―本書より

傳田 光洋 (でんだ-みつひろ) [1960-]

資生堂ライフサイエンス研究センター主任研究員。1960年、兵庫県神戸市生まれ。京都大学工学部工業化学科卒業。同大学院工学研究科分子工学専攻修士課程修了。1994年に京都大学工学博士号授与。カリフォルニア大学サンフランシスコ校研究員を経て、2002年より現職。著書に『皮膚は考える』(岩波書店)がある。―本書より

山口 創 (やまぐち-) [1967-]

聖徳大学人文学部講師。臨床発達心理士。1967年生まれ。1997年、早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程修了。専攻は臨床心理学、身体心理学。論文の他に一般書として『子供の「脳」は肌にある』(光文社新書)、『愛撫・人の心に触れる力』(NHKブックス)、『からだとこころのコリをほぐそう』、『よくわかり臨床心理学』 (ともに川島書店)などがある。―本書より

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