|
|
|
|
|
推薦文
:和田 渡 (阪南大学 名誉教授)
|
哲学者のニーチェは、若者に向かって、「絶えず挑戦し続けよ」とエールを送った。挑戦すれば、失敗も伴うが、それを恐れてはならない。苦難を人生からの贈りものと受けとめ、苦難こそが自分の肉体や精神を鍛えるのだと考えて生きよ。これがニーチェのアドヴァイスだ。困難なこと、苦しいことへの挑戦が自己を成長させ、やがて喜びにつながっていくのだから。
とはいえ、困難な道を主体的に選ぶひとはまれだろう。いまも昔も楽な方へと流れていくのは人間の性だ。しかし、スポーツ選手の場合は、事情は違う。厳しい練習を重ね、試合に出れば結果を残さなければならない。そのためには、信頼できるコーチの助言を得ながら、日々、自分と向き合い、欠点を修正し、長所を伸ばして、実力を強化していくことが必要だ。自分の現状を把握するだけでなく、戦う相手の実力やテクニックを研究することも大切になる。スポーツ選手に求められるのは、自分の身体を鍛える地道な努力、挑戦する意志と覚悟である。それらが薄れてしまえば、スポーツを続けることはできない。
今回取りあげるのは、限りない挑戦を続けた二人のアスリートの書いた本である。 | |
クルム伊達公子の『進化する強さ』(ポプラ社、2012年)は、40代の著者が、それまでの競技人生を振りかえって、経験したこと、感じたこと、考えたことをまとめたものである。著者の自己肯定感には並々ならぬものがあり、失敗や挫折を次のステップへの糧とする意欲も強い。そしてなによりも、挑戦することの苦しさをひとつひとつ乗り越えていく喜びを存分に享受している。読者は、彼女の明るく生き生きとした、どこまでもポジティブな姿勢に驚きつつ、「このひとだからできるので、私には無理だ」と思うかもしれない。しかし、明るい光に自分の影を映し出して、一度、生き方を見直してみるきっかけにはなるだろう。
クルム伊達公子は1970年に京都府に生まれた。6歳からテニスを始め、1995年には世界ランキング4位に入る。1996年、マルチナ・ヒンギス戦を最後に26歳で引退した。1994年から1996年の引退まで、トップ10を維持した。1998年から、子ども対象のテニススクールを開いた。2008年、30代後半で「新たなる挑戦」を宣言して現役復帰した。日本のテニスプレーヤーとしては初めてのケースである。本書が出版された年には、まだプレーヤーとして活躍していた。
本書は、「はじめに」、「心はいつも進化を求めている」、「限界は自分で決める」、「弱さを認める」、「準備を万全にすればどんな勝負も怖くない」、「悪い流れはブレイクできる」、「本当の優しさと本当の強さ」、「ぶれない人生はここにある」、「身体の声を聞く」、「楽しむことで人生は開ける」、「明日は変えることができる」、「おわりに」からなる。
「はじめに」で、著者は、自分をあきらめなければ、いくつになっても成長できると断言する(13頁参照)。「私は絶対にあきらめません。自分に期待し続けています。まだまだ、進化できると信じています。そしてこれは、誰にでも起こりうることだと確信しています。/挑戦することは本当に楽しいこと―/好きなことを続けられることは幸せなこと―/今、私はそれを十分に実感しながら生きています」(13~14頁)。
現役時代の著者は、試合のプレッシャー、周囲の期待、負けたときのバッシングなどに振り回されるなかで、テニスを続けることに嫌気がさしたという(50頁参照)。それが早い引退につながった。しかし、プロの試合から解放され、ストレスのない日々が続くなかで、テニスに対する思いが変化した。「人間はやはり、成長したい生き物。試練を乗り越えて、レベルを上げたい。/目標を設定して、努力して、達成感を得たい。それこそが生きている証です」(51頁)。テニスが好きな自分に気づいた著者は、再チャレンジを決断する。
現役復帰したのちの著者は、徹底した自己管理の結果、20代のときよりも身体能力が高まったと感じている。ストレッチや、体幹トレーニング、鍼治療、マッサージなどを欠かさず、自分の精神的な状態や身体のコンディションを意識しながら、効率的な練習をするようになったからだ(38頁参照)。著者は、がむしゃらにテニスをしていた若いころを回顧しながら、いまは冷静に「心と身体の声を聞くことが、肉体を強くする」(38頁)ことにつながるのだと考えている。かつては、身体の声を聞かずに、自分を極限まで追いこんだために、身体は悲鳴をあげていたのである(同頁参照)。
本書には、テニスの練習や試合以外のことも書かれている。そのひとつが「書くということ」についてだ。著者は、ほぼ毎日ブログを書いているという。テニスのことやその日のコンディションなどについて正直に書く習慣を維持しているのだ(144頁参照)。書くということは、自分自身や自分のプレイと向き合う時間をつくるということであり、書いたものをあとから読み直して、書いてみなければ分からなかったことに気づくことでもある。考えていることは、書きとめなければ、すぐに消えさってしまい、あとから何を考えていたのか思い出そうとしても、はっきりとは思い出せない。しかし、考えていることを文字にすることで、思考内容は心に刻みこまれるし、後から何度でも読み返して、考えなおす機会にもなる。
著者はまた、テニスとはまったく違う世界への入り口として読書を愛好している。お風呂や移動中の機内で小説やノンフィクションなどを好んで読むという。プロ野球やサッカーの世界でも本好きのプレーヤーは少なくない。現実の世界を離れて異質な世界をたずねることのできる読書は、思考力や想像力を高める機会にもなる。その力は自分のプレースタイルを見直すことに役立つだろう。
「おわりに」で、著者は、40歳を超えてもプロとして世界で戦っているのは挑戦をあきらめていないからだという自負を語っている。「私は今、誰だって好きなことを、やりたいことを、全力を持って取り組めば、何でもできる、と思っています」(202頁)。「やればできる―」(205頁)、できないのは、やろうとしないからだ。しかし、安きに流れやすいひとにとって、自分に鞭を入れて何かに全力で取り組むのは簡単にできることではない。著者は、苦しいこと、困難なことを、楽しみながらやり遂げている。それもひとつの才能に違いない。
山岸秀匡の『ボディビル世界チャンピオンが伝授する筋トレは人生を変える哲学だ』(KADOKAWA、2021年)は、ボディビルの世界大会「アーノルド・クラシック212」で日本人としてはただ一人チャンピオンになった山岸の筋肉との戦いの歴史をつづったものだ。
山岸は1973年に帯広市に生まれた。高校時代に筋トレと出会い、早稲田大学で本格的にボディビルを始めて、2002年にプロボディビルダーになった。32歳で渡米し、ボディビルに人生のすべてをかけた。2007年からミスター・オリンピアに出場し、2015年に3位入賞。2016年にアーノルド・クラッシクで初優勝した。
本書は、「序章」、「メンタル哲学」、「トレーニング哲学」、「食事哲学」、「ボディビル哲学」、「プリズナー哲学」、「成功哲学」、「おわりに」からなる。
本書の冒頭の6枚の鍛えあげられた筋肉隆々の写真にまず度肝を抜かれる。体の筋肉が鍛え方次第ではすざましいまでに変化することに圧倒される。挑戦をあきらめないボディビルダーには、肉体を改造する無限の可能性が与えられていることをこれらの写真が示している。
山岸は、序章「勇気を必要とするあなたへ」のなかで、本書を書いた理由をこうまとめている。「一戦を退くと決めたこのタイミングで、今の私にできること、今の私がするべきことは何かと考えたとき、筋肉Tipsに偏らない経験談、夢をつかむための行動チャンス、移民の国アメリカで生きるために必要な強さの獲得過程、世界トップにチャレンジし続ける思考法を読み物にまとめ、勇気につながる後押しを必要としている人たちに届けることではないだろうか、と。そのような想いから、本書を執筆するに至りました」(10頁)。海外に出て勝負したい、高い壁を乗り越えて進みたい、挑戦をあきらめたくない等々、ポジティブな姿勢を貫きたいひとにとっての貴重なアドヴァイスに満ちた本である。
第1章は「限界論」である。若いときに夢を抱いても、自分の実力では無理とあきらめて、はやばやと方向転換してしまうひとは多い。山岸は、限界を定めないことを信条とし、自分の夢に近づくように、自分を組織化することを目指している。「いつかこうなりたい」と願うだけではなく、「いつまでにこうなる」と自分に誓いをたて、そのために必要なことを日々積み重ねて、夢を実現していくのである(23頁参照)。
山岸は、大学の2年のときに、トレーニング雑誌が企画したアメリカでの観戦ツアーに参加する。身体を見事に鍛えあげたスーパースターたちのプロコンテストを観戦した山岸は、そのときの高揚感から、その後、アメリカのベニスビーチでトレーニングし、プロのボディビルダーになりたいと決心する。夢を実現するための計画を着々と実行に移していくのだ(41~42頁参照)。
第2章は、「ボディビルディング論」である。山岸によれば、ボディビルディングとは、筋肉を大きく育てて、脂肪を極限まで落とす行為である(56頁参照)。そのためには、日々、食事内容に気を配り、トレーニングで筋肉を刺激し、脂質の量と質をコントロールしなければならない。食事やトレーニングを半永久的に考えて取り組み続ける強い意志がなければ不可能なことである(57頁参照)。成長と挑戦への意欲がなくなれば、歩みは止まる(63頁参照)。ボディビルディングは、ただ鍛えるだけでなく、ひたすら自分の身体と向き合い、あらゆる筋肉を全体的なバランスを考慮して大きく育てると同時に、脂肪を削り、身体の形をデザインしていく彫刻のような作業であるから、一種の職人気質でなければできないと、山岸は言う(90~91頁参照)。凡人には想像もつかないような繊細な注意力と計画力が求められるハードな世界だ。
山岸は、伝説のボディビルダーであり、名トレーニングコーチのミロシュ・シャシブのもとであたらしいトレーニング方法を学び、プロのコンテストで成績を残すようになった。
第3章は「食事論」である。筋肉のトレーニングに欠かせないのは、徹底的な栄養管理である。「筋肉を作るのも、身体を変えるのも、減量するのもすべて叶えるのは食事なのです」(100頁)。食事に対する心構えが基本なのである。自分の肉体の変化を観察しながら、食事の内容をチェックすることが欠かせない。「身体はコンテスト前の数ヶ月でつくられるものではないので、365日休むことなくボディビルダーらしい食事を続けて良い身体をキープしながら筋肉の成長を促すのが普通です」(107頁)。炭水化物、タンパク質、脂質をどう摂取するか、プロテインやビタミン剤をどの程度服用するか、水分補給の量と時間配分をどうするかにも気を配らなければならない。筋肉を作るには、運動、栄養のほかに、休養(睡眠)も大切である(124頁参照)。寝ている間に身体は発達するので、良質な睡眠が必要になる。この章では、眠りの質をあげる要素として、呼吸、枕、サプリメント、目覚まし時計などが言及されている。一日のスケジュール例も示してあるので、参考にしたいひともいるだろう。
第4章は「トレーニング論」である。1週間のトレーニングメニューが紹介されている。胸とカーブ、大腿四頭筋、肩、ハムストリングスとカーフ、背中、腕をそれぞれの曜日ごとに鍛え、日曜は休養日となっている。トレーニングの仕方には厳しい決まりが課せられている。用心しないと、身体を損傷することになるからだ。
第5章は、アメリカの刑務所体験談である。山岸は、身体を大きくする効果をもつ薬剤、アナボリックスステロイドを大量にアメリカに持ちこんだため、売買する行為を疑われ、刑務所に70日間収容されるはめになった。出国時にはスーパーヒーローだったのに、帰国するときには犯罪者と見なされ、「恥さらし」とののしられた。しかし、離れていくひとが多いなかで、どん底に落ちた山岸を支えてくれたひともいた。そうしたひとのおかげで、山岸は復活を遂げる。
第6章は「成功論」である。完全燃焼して引退したのちの経過報告と回想である。山岸は、プロ生活を振り返って、毎日、筋肉と体脂肪のことだけを考えて行動するボディビルディングは、突き詰めれば、メンタルスポーツ以外の何物でもないと結論づけている(209頁参照)。筋肉の迫力を可能にするのが精神の集中だということだ。山岸はまた、ボディビルディングは、やればやるだけ自分という存在に自信がもてるようになるスポーツだと言う(217頁参照)。山岸は、自分の信念についてこう述べる。「どのような人生を歩むにしても、本質的な部分での生きる目的は自分自身を知り、成長を促し、存在価値を高め、認めて愛するところにあると感じています」(同頁)。「他者からの評価で勝敗が決まる世界だからこそ、私は己のために鍛錬を積んできました。鍛錬の先で自信を勝ち取り、慢心に陥った先で感謝を知る。つまり、私はトレーニングをすることで、自分の人生を生きることができているのです」(223頁)。山岸は、おしまいにこう述べている。「大会出場の幕は閉じるけれども、筋トレは生涯現役。『私は強いか』、『なりたい自分になっているか』との自問自答の哲学は、まだまだ終わりが見えません」(223頁)。
アリストテレスは、幸福になりたいと望まないひとはいないと述べたが、どの世界であれ、いまよりも良い状態を願わないひとはいないだろう。不自由なひとはもう少しの自由を望み、病に苦しむひとは回復を願う。山岸は、生きるということは自己認識、自己成長であり、自分の存在を肯定し、愛することだと述べた。それが成功につながる道と固く信じている。誰もが山岸のように考えて、生きられるわけではない。しかし、山岸の考え方、生き方をひとつの指針として、読者がいま一度自分を見つめなおしてみることは有益ではないだろうか。
|
クルム伊達公子 (クルム-だて-きみこ)】 [1970-]
プロテニス選手。京都府生まれ。1988年(昭和63)園田学園高校3年のとき、インターハイでシングルス、ダブルス、団体の三冠王。1989年(平成1)同校卒業後プロデビュー。1990年全豪オープンに初出場し、日本人として13年ぶりにベスト16まで進出。同年全日本室内選手権で初優勝。1991年バージニアスリムズ・ロサンゼルス大会で当時世界ランキング3位のサバチーニを破って準優勝。同年全日本選手権初優勝。1992年ジャパンオープンでツアー初優勝。1993年ジャパンオープン2連覇。1994年NSWオープンで海外ツアー初優勝を飾った。同年ジャパンオープン3連覇。1995年ウィンブルドン全英選手権で日本女子初のベスト8に進出。日本選手史上最高の世界ランキング4位となった。1996年フェドカップで世界ランキング1位のグラフを破ったが、続くウィンブルドンでは準決勝で、そのグラフとの2日がかりの熱戦の末、惜敗した。同年オリンピック・アトランタ大会ではベスト8。同年9月現役引退を表明。11月最終戦のWTAツアー選手権で引退セレモニーが行われた。引退時の世界ランキングは9位。2001年ドイツ人レーシングドライバーのM・クルムと結婚。2008年4月選手登録名をクルム伊達公子とし、現役復帰。同年11月の全日本選手権に優勝した。1989年日本プロテニス協会新人賞、1993年報知プロスポーツ大賞、1994年東京都文化賞、1996年度朝日スポーツ賞などを受賞。[編集部] "伊達公子", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-02-27)
|
山岸秀匡 (やまぎし-ひでただ) [1973-]
―本書より
|
|
|