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母国を離れて生きる―多和田葉子と山崎佳代子―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 多和田葉子の『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波現代文庫、2012年)は、読み応えのある、刺激的な一冊である。本書は、著者の体験談にとどまらず、人種や差別、支配と被支配などに関して、誰もがなんとなく気づいてはいても、深く考えようとはしない問題を随所で鋭くえぐり出している。
 多和田葉子は1960年に東京に生まれる。高校時代に第二外国語としてドイツ語を習い始める。早稲田大学第一文学部ロシア文学科卒業。その後、ハンブルク大学、チューリッヒ大学の大学院で学ぶ。82年よりハンブルクに在住。日本語とドイツ語による著作多数。 本書は、「初めに」、「第一部 母語の外へ出る旅」、「第二部 実践編 ドイツ語の冒険」からなる。第一部では、旅先の都市の名前がタイトルになっており、ダカールからマルセイユまで、全部で20だ。
 「1 ダカール」の冒頭で、シンポジウムに参加した著者は、「エクソフォンな作家」という初めて聞く言葉で紹介されたと述べる(3頁参照)。「エクソフォニー」は、「移民文学」や「クレオール文学」よりも広い意味で、「母国語の外に出た状態一般」(3頁)を指している。 

母国語を離れて生きる

著者は、「自分を包んでいる(縛っている)母語の外にどうやって出るか? 出たらどうなるか?」(7頁)という冒険的な発想に支えられているのが『エクソフォン文学』だと解釈している。植民地支配や亡命などによって、母語以外の言葉を用いることを強いられる場合もあれば、自発的に母語以外の言葉を選ぶ場合もあるが、著者は後者に該当する。「言語表現の可能性と不可能性という問題に迫るためには、母語の外部に出ることが、一つの有力な戦略になる」(10頁)。著者は、ドイツ語でも書くことによって、日本語で表現することの意味や射程を見直そうとしているのだ。
 「3 ロサンジェルス」では、エクソフォニーとは無縁であったドイツの作家、トーマス・マンがひとつの話題として取りあげられている。マンはナチスの迫害を逃れてカリフォルニアに亡命し、英語も流暢に話していたが、文学作品はドイツ語でしか書かなかった。当時のカリフォルニアの気候、風土に適応できない亡命作家が多いなかで、マンはそうではなかった。なぜ英語で書かなかったのか、その理由は不明である。
 ドイツ語作家には、エクソフォニーを嫌うひとが少なくないという。20年以上ロンドンに暮らす作家、アンネ・ドゥーデンは、ドイツ語でしか書かない理由をこう説明している。「ドイツ語という言語そのものの中に自分たちの背負っているドイツの歴史が刻み込まれている、ドイツ語を離れてしまったら、ドイツの歴史の中に切り込んでいくができない、だからドイツ語を捨てることができないのだ」(28頁)。「ドイツの歴史に責任をもたなければならないということだろう」(同頁)と、多和田は推測している。ドゥーデンは、ドイツの外にいても、ドイツという国の歴史を離れられずに生きている。
 多和田は、逆に、いくつもの国を移動する作家だ。「今の時代は、人間が移動している方が普通になってきた。どこにも居場所がないのではなく、どこへ行っても深く眠れる厚いまぶたと、いろいろな味の分かる舌と、どこへ行っても焦点をあわせることのできる複眼を持つことの方が大切なのではないか」(32頁)。自分の狭い見方や偏見を注意深く遠ざけて、外の世界を柔軟に捉える姿勢の重要性を説く。
 「4 パリ」では、ドイツ語でしか詩を書かなかったパウル・ツェランが話題である。ツェランの「詩人はたった一つの言語でしか詩は書けない」という言葉はよく引用されるが、ひとつの言語とはドイツ語のみを指すのではないと著者は言う(41頁参照)。彼のドイツ語のなかには、詩的な発想のグラフィックな基盤として、フランス語やロシア語などの多様な言語が網目のように織り合わされていると見なすからである(同頁参照)。著者は、ツェランを読めば読むほど、ひとつの言語はひとつの言語ではないと強く感じると言い、こう締めくくっている。「母語の外に出なくても、母語そのものの中に複数言語を作り出すことで、『外』とか『中』ということが言えなくなることもある」(43頁)。「内にいても外にいる」という在り方が実現されているということだ。
 「8 ソウル」は、「エクソフォニー」異論だ。韓国の高齢者たちは、日本語を読むことを強制された世代だ。ロシア文学やフランス文学も日本語訳でしか読めなかった。かつて韓国が置かれた状況を想起しつつ、著者はこう述べる。「母語の外へ出る楽しみをいつも語っているわたしだが、日本人のせいでエクソフォニーを強いられた歴史を持つ国に行くと、エクソフォニーという言葉にも暗い影がさす。母語の外に出ることを強いた責任がはっきりされないうちは、エクソフォニーの喜びを説くことも不可能であるに違いない」(71頁)。著者は韓国に身を置いて、この国が中国という文化的巨人と日本という侵略国家の狭間で、徹底的に自分の言語の純粋性を求めるようになったのではないかという印象を受けている(同頁参照)。漢字を避け、ハングルだけにすると、昔の本や学術書が読めずに不便ではないかという著者の問いに、ある学生は、中国文化の巨大な影響を排除するためには漢字を使ってはだめだと答えている(71頁参照)。
 「10 ハンブルク」は、「エクソフォニー」讃である。著者は、エクソフォニーの特色をこう表現する。「母語の外に出ることは、異質の音楽に身を任せることかもしれない。エクソフォニーとは、新しいシンフォニーに耳を傾けることだ」(89頁)。著者は、「1 ダカール」でこう述べている。「この世界にはいろいろな音楽が鳴っているが、自分を包んでいる母語の響きから、ちょっと外に出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。それは冒険でもある」(7頁)。母語とは異なる言語を学ぶことによって、母語を見る見方が変わってくる。琴の奏者は、ハープの音を聴くことで、自分の奏でている琴の響きに注目する。言語であれ、音楽であれ、異質なものとの出会いには驚きや発見が伴う。それは、著者の言うように、冒険なのである。
 第2部の「7 言葉を綴る」は、マサチューセッツ工科大学でドイツ語を学ぶ学生に作文を課したときの報告だ。日ごろは小説など読まず、日記も書かない学生たちが熱心にドイツ語の作文を書き始めたという。著者は、日本でドイツ語を勉強する学生にも、ドイツ語で日記を書くことをすすめている。日本語では恥ずかしくて書けないことも、ドイツ語では平気で書けることもあるという。「そうやって、毎日書いているうちに、綴られた文章の連なりが織物のようなもう一人の自分を生み出していくかもしれない」(193頁)。著者は、外国語の学習は、新しい自分を作ること、未知の自分を発見することにつながると言う(同頁参照)。著者によれば、日本語でものを書いていると、頭のなかに日本語と一緒にプログラミングされたタブーに触れないようにする機能が自動的に働く。そこで、他の言語で書くと、タブー排斥機能が働かなくなり、普段は考えてもみなかったはずのことを大胆に表現することができ、それが自己発見に結びつくという(同頁参照)。
 読者は、本書のいたるところで、母語と外国語、言語と越境、言語と身体、文化間の差異といった問題についての鋭い指摘に出会う。著者の「母語の外へ出る旅」に同行してみてはいかがだろうか。

 山崎佳代子の『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫、2022年)は、空爆が続く街にとどまり、戦火の状況や、人々の暮らしぶり、文学や希望を語るエッセイ集である。
 山崎は1956年、金沢市に生まれる。北海道大学露文科を卒業。大学卒業を前にして、何をしたらいいのか、どこへ行けばいいのか、答えの出ない問いを抱えていた著者は、出国を決意した(18~19頁参照)。「『大きな国』の言葉ではなく、『小さな国』の眼で観たら、世界はどう映るだろうか。ぼんやり、それを考えた」(19頁)。1979年、著者は、片道切符でユーゴスラビアへ旅立った。
 サラエボ大学文学部で学んだあと、スロベニア共和国のリュブリャナ民族音楽研究所に移った。1981年からセルビア共和国ベオグラード市在住。1985年には、ベオグラード大学で、日本学科の仕事を始めた。その後、この地で戦争が起きた。セルビア・クロアチア・スロベニア人王国が母体となる多民族国家の旧ユーゴスラビアが崩壊する過程で、激しい民族紛争が勃発したのである。クロアチアで始まった内戦は、1992年にはボスニアにもひろがり、著者の住んでいたベオグラードの街には、故郷を失ったひとびとがあふれた(46頁参照)。同年の5月には、ユーゴスラビアに対して、ボスニア内戦の最大の責任国として国連制裁が科せられた。
 1999年、NATOによるユーゴスラビアへの空爆が始まる。「最初の空爆は、難民センターに落ちて、死者はクロアチアやボスニアから来た難民女性だったと記憶する。(中略)『最初は、死者が名前で知らされる。それから数になる。最後は数もわからなくなる……』それが戦争だ。サラエボから脱出してきたタブランコ・グリンフェルドが言ったのを思い出す。数、数、数のなかに、私たちは組み込まれていった」(156頁)。
 同年の5月27日、珍しく、空爆の犠牲者が名前で報じられる。ステファンとダヤナという小さな子どもたちだったからだ。ふたりは、著者と同じ集合住宅の4階に住んでいたが、停電中の住みにくい住宅を離れ、おじいさんの住む村に疎開中に空爆にあい、幼くして天国に帰った。本書の冒頭には、ふたりを悼む詩が捧げられている。

 

     階段、ふたりの天使
          ステファンとダヤナ

     生まれたその日から
     小さな手をひろげ
     愛のかけらをささげるために
     私たちはやってきた

     思いきり泣いて
     そっとほほえんで
     命と命がささえあい
     階段をのぼりつづける
     水と空気を
     奪われ
     光を消されても
     手をつなぎ

     命は命に
     耳を澄まし
     声もたてず
     階段をのぼりつづける

     天使が空に
     かえった朝も
     小さな足あとが
     ただ闇にかがやき

     だから 私たちは のぼりつづける
     天使が去った階段を

 6月3日に、著者は東京で難民を支援する仲間たちに頼まれて、メッセージを送った。その一部を引用する。「大きな声にさえぎられた小さな声、隠された言葉に、耳を澄ましてほしい・・・・・・。/ 今ここで、未来は私たちに何ひとつ約束しようとはしない。暴力と恐怖が、大きな声をたてている。(中略)/こどもたちに、これとは別の未来はありえないのだろうか。いや、別の未来があるはずだ。そして・・・・・・耳を澄ましてほしい、じっと耳をかたむけてほしい、こどもが何を語ろうとしているのか聞いてほしい。耳を澄まして、新しい意味を見いだしてほしい。耳を澄ますこと、それは未来を開くこと。今ここで、私たちは戦火のなかに生きている。夜も昼も、非人間的な声が響き、私たちの命を脅かす。だが、それでもなお、人として生き続けたい」(184~185頁)。
 6月の10日に、78日間続いた空爆が停止された。
 文庫版の「あとがき」のおしまいで、著者はこう祈っている。「いよいよ暗い時代となったが、善き言葉を人々が食物のように分け合うことができたらいい」(234頁)。
 

人物紹介

多和田 葉子 (たわだ-ようこ) [1960-]

平成時代の小説家。 昭和35年3月23日生まれ。ドイツの書籍輸出会社にはいり,昭和57年ハンブルクに赴任し,のち退社。現地にすみ,通訳,家庭教師のかたわら日本語とドイツ語で小説をかく。平成3年「かかとを失くして」で群像新人文学賞,5年「犬婿入り」で芥川賞。8年ドイツのシャミッソー文学賞。15年「容疑者の夜行列車」で伊藤整文学賞,谷崎潤一郎賞。21年坪内逍遥大賞。23年「尼僧とキューピッドの弓」で紫式部文学賞。同年「雪の練習生」で野間文芸賞。25年「雲をつかむ話」で読売文学賞(小説賞),芸術選奨文部科学大臣賞。東京都出身。早大卒。著作はほかに「ヒナギクのお茶の場合」(泉鏡花文学賞),「球形時間」(Bunkamura ドゥ マゴ文学賞)。 

©Kodansha "たわだ-ようこ【多和田葉子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-05-15)

山崎 佳代子 (やまさき-かよこ) [1956-]

昭和後期-平成時代の詩人,翻訳家。昭和31年9月14日生まれ。翻訳家・ユーゴスラビア研究者の山崎洋の妻。昭和54年旧ユーゴスラビアのサラエボ大に留学。のちベオグラード大助手をへて,教授。セルビア在住。白石かずこら日本の近現代詩を翻訳紹介。27年「ベオグラード日誌」で読売文学賞随筆・紀行賞。石川県出身。北大卒。著作はほかに「そこから青い闇がささやき」,詩集「鳥のために」,訳書にダニロ・キシュ「若き日の哀しみ」など。
"やまさき-かよこ【山崎佳代子】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-05-15)

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