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詩と真実―ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩―
推薦文 :和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 ヴィスワヴァ・シンボルスカの『終わりと始まり』(沼野充義訳、未知谷、2002年)には、ごくありふれたことばで書かれていて、あまり引っかかることもなく読んでしまいがちな詩が18篇集められている。しかし、じっくりとことばの意味をさぐっていくと、人間の生活、生き物のいのち、時代の潮流などについて幾度も考えさせられる詩ばかりだ。
 シンボルスカは、1932年に、ポーランド西部の小さな町に生まれた。クラクフのヤギェウォ大学で学び、1945年に詩人としてデビューした。スターリン時代には社会主義リアリズム路線に従った詩を書くこともあったが、その後、自分のことばで表現する詩人として、つつましくひっそりと生きた。2012年にクラクフの自宅で88歳の生涯を閉じた。
 やさしいことばで深い真実を語る彼女の詩は1980年代頃から急速に評価が高まり、1996年にノーベル文学賞を受賞した。訳者によれば、受賞を知らされたときの最初のコメントは、「『とても嬉しいけれど、私が一番大事にしている静かな生活が乱されるのが怖くて……』」(107頁)というものだったらしい。

詩と真実

 彼女は、「ノーベル文学賞記念講演―この驚くべき世界で」でこう述べている。「今世紀の初めのことですが、詩人たちは風変わりな服装や突飛な振る舞いで人にショックを与えることを好みました。しかし、それはつねに公衆を意識した見せ物だったにすぎません。詩人がドアを閉めて部屋に閉じこもり,マントも、飾りも、その他の詩的アクセサリーもいっさいかなぐり捨てて、静かに、自分自身を待ちながら、まだ何も書かれていない紙切れに向かい合う―そういった瞬間は何度もあったはずです。これだけが、結局、本当に大切なことなのですから」(94頁)。「自分自身を待ちながら」、これがキーワードだ。白紙に何が書かれるのか、あらかじめ分かっているわけではない。ことばがどこからかやってくるのをじっと待つ。それは、自分自身を待つこと、自分にやってくるものを待つことだ。
 詩はインスピレーションを受けて書かれる。しかし、インスピレーションとは何か。そう聞かれれば、「曖昧で言い逃れのような答」(96頁)しか言えないと彼女は言う。「自分でもわかっていないものを人に説明するなんて、簡単にできるものではないでしょう」(同頁)。「インスピレーションとは、それが実際に何であれ、不断の『わたしは知らない』から生まれてくる」(97頁)。
 ところが、彼女によれば、日々の糧を得るために働くひとも、残忍な悪党も、独裁者、狂信者、煽動家なども、「知っている」ひとだ(97~98頁参照)。「彼らは知っているから、自分の知っていることだけで永遠に満ち足りてしまう。彼らはそれ以上、何にも興味をもちません。(中略)どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生みださなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって致命的に危険なものにさえなり得るのです」(98頁)。
 だからこそ、「私は知らない」という小さなことばを大事にしたいと、彼女は言う。それは小さくとも、強力な翼をもち、わたしたちの生を拡張してくれるからだ(98頁参照)。それは、「私は知っている」という不遜な自信を打ち砕くのだ。
 「わたしたちは個々の存在の苦痛に対して、つまり、人間や、獣や、そしてひょっとしたら植物の苦痛に対してまでも―というのも、いったい植物が苦痛を感じないなどと確信を持って言えるものでしょうか―世界が無関心であることにひどく落胆させられます」(101頁)。彼女によれば、世界は「驚くべきもの」(102頁)であり、私たちが慣れ親しんでいると思いこんでいる世界に自明なものなどなにひとつないのだ。
 「一語一語の重みが量られる詩の言葉では、もはや平凡なもの、普通のものなど何もありません。どんな石だって、その上に浮かぶどんな雲だって、どんな昼であっても、その後に来るどんな夜であっても、そして、とりわけ、この世界の中に存在するということ、誰のものでもないその存在も。そのどれ一つを取っても、普通ではないのです」(103頁)。あたりまえに思えることが、実はあたりまえのことではなくて、奇蹟の連続なのだ。フランスの哲学者のジャンケレヴィッチは、『死とは何か』(原章二訳、青弓社、1995年)のなかで、「私の人生やあなたの人生、私たちがいま、この瞬間にここにいるということが、よくよく考えてみれば、とても不思議なことだということです」(50頁)と述べた。いまの瞬間は、過去と結びつき、この先へと刻々と移ろい、変性しており、二度と同じ在り方をしない。まさに不可思議な一期一会の出来事なのだ。しかし、不思議なのは私やあなたの人生だけではない。彼女が言うように、石や雲、昼や夜がいま存在していること、誰のものでもないものが存在しているということ、そのことも驚くべき神秘なのだ。そこには、私が知らないたくさんのことが秘められている。それらとずっと向き合っていくことが詩人の仕事になるのだ。

 「詩の好きな人もいる」という詩を引用してみよう。

 

  そういう人もいる
  つまり、みんなではない
  みんなの中の大多数ではなく、むしろ少数派
  むりやりそれを押しつける学校や
  それを書くご当人は勘定に入れなければ
  そういう人はたぶん、千人に二人くらい


  好きといっても―
  人はヌードル・スープも好きだし
  お世辞や空色も好きだし
  古いスカーフも好きだし
  我を張ることも好きだし
  犬をなでることも好きだ


  詩が好きといっても―
  詩とはいったい何だろう
  その問いに対して出されてきた
  答えはもう一つや二つではない
  でもわたしは分からないし、分からないということにつかまっている
  分からないということが命綱であるかのように (16~17頁)



 先に述べた、「私は知らない」ということの詩的な宣言だ。詩人の谷川俊太郎
は、『詩ってなんだろう』(ちくま文庫、2022年[9刷])のなかで、「詩をよむと、こころがひろがる。詩を声にだすと、からだがよろこぶ。うみややま、ゆうやけやほしぞら、詩はいいけしきのうように、わたしたちにいきるちからをあたえてくれる、ふしぎなもの」(171~172頁)と詩のもたらす効果を語った後、「詩ってなんだろう、というといかけにこたえたひとは、せかいじゅうにまだひとりもいない」(172頁)と述べた。おそらく、インスピレーションの由来が定かではないからだ。

 「もらい物は何もない」というもうひとつの詩を引用する。

 
  もらい物は何もない、すべては借り物
  借金で首が回らないほどだ
  自分の代金を
  自分の身で支払い
  命の支払いに命を投げ出すことになるだろう


  もうそういうことになっていて
  心臓も返さなければならないし
  肝臓も返さなければならない
  指だって一本一本どれもこれも

 

  契約の条件を破棄するにはもう遅すぎる
  借金はわたしから身ぐるみ
  それこそ皮ごと取り立てられるだろう


  借りを背負った他の人たちの群にまぎれて
  わたしは世界中を歩き回る
  翼の返却を迫られて
  困っている人もいれば
  葉っぱの清算をいやおうなしに
  しなければならない人もいる


  借方には、わたしたちの体の
  すべての組織が含まれている
  まつげ一本、茎一本といえども
  返さずに持っているわけにはいかない


  貸借対照表は正確で、何も見逃さない
  どうやらわたしたちは
  無一文で取り残されることになりそうだ


  ただ、どうしても思い出せない
  いつ、どこで、何のために
  わざわざこんな金勘定の口座を
  開くことになったのか


  それに対する抗議を
  人は魂と呼ぶ
  そして、この魂だけが
  貸借表に載っていないただ一つのもの (75~78頁)



 私たちは、裸で生まれて、裸で死んでいかなければならない。その間のつかの間の生は借り物によって支えられている。自分のものだと思っているものは、すべて返して去っていかなければならない。だが、返すことのできない魂だけがこの顛末を見つめているのだ。魂の存在という個々の人間の比類ない側面を照射する詩だ。


 つかだみちこの『シンボルスカの引き出し ポーランド文化と文学の話』(港の人、2017年)は、ポーランド文学に造詣が深い翻訳者による案内書である。
「Ⅰ シンボルスカ」、「Ⅱ ポーランド三十景」、「Ⅲ ポーランド文化と文学の話」の3部構成である。 

 Ⅰでは、遺稿詩集『それで充分』(2011年)から、「こんな人々」という詩が引用されている。


  なんでもなく日常生活をこなしている人々がいる
  すべてそれなりのやり方があり
  正当な考えを持っている


  すぐにそれがどうで、だれがどうして
  だれが一緒で どんな目的で
  どちらの方向へいくのか
  すべてお見通し


  ひとつの真実のために印鑑を押し
  不要なものはシュレッダーにかけ
  すみやかに廃棄する
  未知の人は最初から整理棚に始末してしまう


  そんな人たちは何に価値があるかいつも考えている
  どんな時でも抜け目なく
  何故ならそんな瞬間にも何らかの問題は潜んでいるのだから


  時に、こんな人々を羨ましく思うこともあった
  しかし幸いにも、そんなことはもう卒業してしまっている (11~12頁)

 


 存在することの神秘に驚き、「私はわからない」と意識しながら、少しでもわかろうとする姿勢を貫いて生きた詩人の、平凡な群れからの自立を宣言する詩だ。
 本書のⅠには、シンボルスカの詩や視点、死などについての見逃せない記述が豊富である。ⅡとⅢでは、ポーランドという国の断片や、文化と文学の話が満載である。興味ある人には欠かせないものだ。

人物紹介

ヴィスワヴァ・シンボルスカ (Wisława Szymborska) [1923.7.2-2012.2.1]

ポーランドの女性詩人。ポズナニ県クルニクに生まれ,クラクフのヤギエウォ大学で社会学とポーランド文学を学んだ。詩編『言葉を探して』Szukam słowa(1945)でデビュー。1952年に最初の詩集『だから生きている』Dlatego żyjemyを出版し,54年には第2詩集『自問』Pytania zadawane sobieを著して,存在論的・形而上(けいじじよう)学的なテーマを,感傷を排した知的な抒情詩に結晶させて,現代ポーランド詩に新境地を開いた。詩集『雪男イェティへの呼びかけ』Wołanie do Yeti(57)では,人間と社会・歴史・愛の関わりを自らのテーマとし,詩集『塩』Sól(62)ではさらにこのテーマを深めて,詩集『百の慰め』Sto pociech(67)で円熟期に入った。その後の作品として詩集『あらゆる場合』Wszelki wypadek(72),『大きな数』Wielka liczba(76),『橋の上の人々』Ludzie na moście(86),『終わりと始まり』Koniec i początek(93)がある。彼女の詩では,人間の性向を,哀しみ・懐疑・アイロニー・皮肉をこめて見つめているが,けっしてそれに絶望してはいない。彼女の姿勢は,自然があらゆる存在に押しつけた制約を受け入れるところから生じる節度ある楽観主義である。平易で簡潔な表現を的確に用いながら,その詩的世界は常に意外性と驚嘆に満ち,独自の普遍性を獲得している。1996年ノーベル文学賞を受賞。
(長與 容)
©Shueisha

"シンボルスカ ヴィスワヴァ", デジタル版 集英社世界文学大事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-06-14)

谷川俊太郎 (たにかわ-しゅんたろう) [1931−]

昭和後期-平成時代の詩人。
昭和6年12月15日生まれ。谷川徹三の子。昭和27年「二十億光年の孤独」で登場。以来,詩のほか劇,ラジオドラマ,絵本などを活発に創作する。50年訳詩集「マザー・グースのうた」で日本翻訳文化賞,58年詩集「日々の地図」で読売文学賞,平成5年「世間知ラズ」で萩原朔太郎賞。8年朝日賞。18年詩集「シャガールと木の葉」「谷川俊太郎詩選集1〜3」で毎日芸術賞。22年「トロムソコラージュ」で鮎川信夫賞。23年北京大など主催の現代詩賞「中坤国際詩歌賞」を受賞。東京出身。豊多摩高卒。
©Kodansha

"たにかわ-しゅんたろう【谷川俊太郎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-06-14)

つかだみちこ

東京都出身。エッセイスト、ポーランド文学翻訳家、日本ペンクラブ会員、訳書に、ヤロスワフ・イワシキェヴィチ『ノアンの夏 ショパンとジョルジュ・サンド』(未知谷)、『シンボルスカ詩集』(土曜美術出版)、チェスワフ・ミウォシュ『世界 ポエマ・ナイヴネ』(共訳、港の人)ほか。著書に『キューリー夫人の末裔 ポーランドの女たち』(筑摩書房)等。 ―本書より

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