蔵書検索(OPAC)
HOME > 資料案内 > 新しく入った本 > おすすめの一冊
新着資料 ベストセラー 学生の購入リクエスト
映画・ドラマの原作 テーマ図書 おすすめの一冊
おすすめの一冊 本学の教員や図書館員のおすすめの本を紹介します。

前の本へ

次の本へ
本の魅力―管啓次郎の読書論・書評・詩―【最終回】
推薦文:和田 渡 (阪南大学 名誉教授)

 管啓次郎の『本と貝殻 書評/読書論』(コトニ社、2023年)は、本を愛する管が選り抜きの本を紹介する読書案内である。「Ⅰ読むことにむかって」、「Ⅱ心の地形 30」、「Ⅲ読売書評 2012-2013」、「Ⅳ四つの解説、対話ひとつ」からなる。冒頭に「本と貝殻」と題する長詩が置かれている。
 Ⅰのなかの「立ち話、かち渡り」で、管は「日常的・継続的に『本を読もう』という意志」 (19頁)をもつ人を念頭にして、自身の本への関わり方を二点取りあげている。われわれの生涯は短い。本は無限にある。それでは、どんな本を読むのか。選択が必要になる。そこで、管流の「本の読み方における二つの態度」(同頁)が語られる。そのひとつは、「知らない本たちのことを知らない人間のごとくに考えてみる」(22頁)ことだ。人との立ち話がしばしば影響を残すように、本の立ち読み、「一瞬の閃光のような『閃き読み』」(23頁)も心に残るのだと管は言う。「本と積極的に立ち話をしよう。それはこの世の暗闇を歩いてゆくための、小さな光を与えてくれる」(同頁)。もうひとつは、「かち渡り」(同頁)だ。かち渡りとは、川の流れを徒歩で渡りたい時に、いくつかの石を投げこんで足場を作って渡ることだ。読書の場合にもこの作業をすればよい。適当なページを開いて読めそうな箇所を探す。それを起点として次を探す。それを繰り返すと何とか読み終えることができる。川を渡り終えた時、本を読み終えた時、自分がすでに不可逆的な変化を経験したことがはっきりとわかる(24頁参照)。

本の魅力―管啓次郎の読書論・書評・詩―Special Thanks to Proffesor Wada

 19世紀末、神霊術が流行した時代に、人間の魂が「半物質化」し、口からモヤモヤとしたもの(エクトプラズム)が出てくると考えられた(27頁参照)。本を読むときには、固体としての本からこのエクトプラズムが立ち上り、読者にとりつき、しみこんでゆくと管は言う(同頁参照)。読書は、まぎれもなく変身の経験となるのだ。 図書館が大学の中心的な場所であり魂だと心の底から実感してほしいと、大学教員としての管は大学生に望んでいる。本との出会いはこう表現されている。「適当なページをぱらりと開いて、目についたセンテンスを読んでみるといい。そこですでに火花が散りはじめる。エクトプラズムが立ち上りはじめる。本の中から何かがやってくる。それはきみを作り替える何か、少なくともきみの言語を組み替えてしまう何かだ」(29頁)。図書館への招待文を引用しておこう。「図書館こそ真の変革の装置であり、きみにとっての<大学>の中心的な場となることだろう。きみがそこに行こうと行くまいと、図書館ではそこに集合し離散する本たちが、日々とんでもない規模と強度をもった知識の祭典をくりひろげている。大学生なら、それに参加しないという手はない」(30頁)。
 図書館に足しげく通い、管の言う「知識の祭典」に参加していると、身につくのが教養である。管の定義によれば、教養とは、いま、ここに生きながら、その場にないもの、時間的、空間的に隔たったものを想像するための前提となる知識である(33頁参照)。「あらゆるものには地理的・歴史的コンテクストがある。それらを意識することは、われわれの社会の基盤がどのような層によってできているかを意識することにつながり、どんな問題がいつ生じ現在までつづいているのか、それを解決するにはどうすればいいのかを考えることにつながる」(同頁)。万物はつながっている。それゆえに、あるものを知るためには、それが結びついている他のものどもを知らなければならない。その結びつきのなかで見えていないものには、想像力を介して迫っていかなければならない。そうした試みのきっかけとなるのが本だ。本は、人間や動物の心の世界にも、植物の生存にも、アフリカの風土や南米のアマゾンにもつながっている。そのつながりの背景や歴史を考えることで、いま、ここに生きていて、まだ自分に育っていないものを見つめて、想像し、それを育てていくことができる。それが教養の意味でもある。
 Ⅱには、管が推す作品が集められている。「人生を変えるための小説へ」で、管は木村友祐の『イサの氾濫』(未来社、2016年)を取りあげている。この小説は、震災の「後」を「過ぎたこと」として忘れようとする者たちに抗して書かれた、「後」を常にこの場に蘇らせようとする意志の戦いの記録だと評価されている。管によれば、日本の近代の国家・社会・産業はどんな破局を経験しようとも、その反省なき論理の自己展開を維持しているが、そのさまをごく小さな片隅の、まったく目立たない人物の形象を通じて浮かび上がらせているのが『イサの氾濫』である(102頁参照)。この小説がわれわれを思ってもみなかった方向に向かわせるとして、こう述べられている。「むかうのは世界と社会と自分と他人をめぐる新しい見方であり、考え方であり、そんな考え方を手に入れること自体が、読者をさまざまな拘束から自由にする。その自由はまだ予感のようなものにすぎず、ひとりひとりの読者は指にささった棘のようにそれを経験するにすぎないとしても、その棘、その痛みが初めて作り出す新たな集団がある。その集団は、小説作品という棘に出会うまでは、ただ潜在しているだけ。作品が、潜在する読者たちの心のかけらを振動させ、加熱し、暴発させ、反乱させるのだ」(101~102 頁)。小説は読者の人生を変え得るということが、熱量たっぷりの表現で強調されている。
 「肉ついて真剣に考えるために」では、ドミニク・レステルの『肉食の哲学』(大辻都訳、左右社、2020年)が話題だ。管の告白と自己批判、自己卑下から始まる。「命を奪うのにみずから手を下したわけでもない肉を、その来歴もよく知らないままに商品として買い、それを平気で食べている。そこに潜む無責任さ、卑怯さ。(中略)そんな食肉消費者としての私は、(中略)たしなめるべき、笑うべき、憐れむべき存在かもしれない」(111頁)。
 この本で、レステルは肉食を擁護し、菜食主義者に疑義を唱えている。レステルによれば、生きることは傷つけ、傷つけられることであり、罪を免れない。肉を食べる罪を免れることができないのが人である。他方で、動物の肉を食べることを拒否し菜食を選ぶ人は、植物は食してもよいという勝手な理屈をつけて自分の行動を正当化している。植物も生きて呼吸しており、人間以上に鋭敏な感覚をもっているということは無視されているのだ。
 レステルは、現代のグローバル消費社会において、人が傲慢なまでに生命を軽視、侮蔑していることを深く憂慮している(114頁参照)。管はこの点に最も注目している。われわれの社会では、「『地球で生きる生命の総体に対する、止むことのない自殺的攻撃』」(同頁)が繰り返されているのだ。
 レステルはまた、気候変動だけでも西洋型自由民主主義の終わりを告げるには十分だと考えている(115頁参照)。「非人間の生命を略奪しつくした上に、人類自身も滅びを選ぶのか。それともここで態度を改めて山川草木鳥獣虫魚の声に耳を傾け、別の未来を探るのか」(同頁)という課題が突きつけられている。人間による万物(生命的自然)の抑圧と破壊が続けば、万物との親和的共存の道が完全に断たれてしまうだろう。その先の滅亡を予感する人も増えている。滅亡を回避しようとする動きが顕著になる日ははたして来るのだろうか。
 「生命をめぐる態度の変更について」では、生田武志の『いのちへの礼儀―国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房、2019年)が紹介されている。管は冒頭で言う。「あなたもとっくに気づいていたはずだ」(126頁)。「ヒトの原罪とも呼べる日々の事実に。動物たちに対する恐るべき残虐、動物の命に対する途方もない負債がそれだ」(同頁)。これまで、動物たちは、肉、毛布や骨、卵や乳、労働力、実験材料、ペットなどとして利用されてきた。こうした動物虐待の歴史を踏まえて、「本書だけは、ぜひ読んでほしい」(同頁)と管は言う。その理由をこう述べる。「われわれの社会はすでに、ヒトと動物との関係を全面的に考え直さなければやっていけない段階に達していると思うからだ。動物の命を考え、そのむこうに広大にひろがる植物や菌類の命を考え、地球生態系の中での人間の位置を深刻に反省する必要がある」(126~127頁)。
 生田は、本書で、「人間と動物との共闘」(128頁)を説く。重い病気をかかえて、ほとんど誰にも反応を見せなかったイギリスの少年が、野生動物センターで子オオカミと対面する場面が抜粋されている。「両者は見つめ合う。子オオカミが少年の顔を舐めはじめる。少年の目から涙が湧き頬を伝う。いったい何が起きたのか。確実にいえるのは、必要な共闘は種を越えた共闘にはじまることだ」(128頁)。管はこう締めくくっている。「命を生かす。より少なく傷つけ合う。そんな文明への転換をめざそう」(同頁)。
 Ⅲの書評では、選りすぐりの本が選ばれているが、出口顕『レヴィ=ストロース―まなざしの構造主義』(河出ブックス、2012年)だけを取りあげる。管は、「遠いまなざし」と翻訳される世阿弥の「離見の見」をこう説明している。「自分が属する『ここ』の社会と文化を別の時代や場所からの視線により見つめ直し、または『あそこ』へと出かけて行ってはそこで動き話し見る演技者としての自分を観客の視点から見る。民俗学=文化人類学のもっとも基本的な約束事だろう」(175頁)。「ここ」から「あそこ」へ移動すれば、「あそこ」で見えるものが、「ここ」を見つめるために役に立つ。場所移動によって、相対的なまなざしが獲得されるのだ。
 管は現状をこう危惧している。「市場経済のグローバル化と人口爆発により自然の収奪がここまで進み、閉鎖系としての熱バランスさえ失われそうな地球で、はたして人類にはどんな未来があるのか、ないのか」(175頁)。それを見定めるためには、「<近代>そのものの『離見の見』から出発する以外にない」(同頁)と管は言う。現状から距離を取り、慣れ親しんだ考え方を離れて、別の仕方で現状を見つめ直すことが求められているのだ。

 Ⅳでは、「過去はつねにこれから到来する……エドゥアール・グリッサン」が刺激的だ。管と評論や翻訳で著名な中村隆之との対話だ。グリッサンは、1928年にカリブ海・マルティニック島に生まれ、2011年にパリで亡くなった。詩作から出発し、その後小説を執筆するようになった。ふたりの対話では、管が訳した歴史小説の『第四世紀』に焦点が当てられている。この小説は、アフリカ系のふたつの奴隷の家系を中心に進むが、この家系のルーツは、同じ奴隷船に乗っていたふたりの男であった。小説では、それぞれの家系の子供や孫の物語が続く。アフリカから奴隷船で見知らぬ島に連れてこられ、数々の苦難を経た黒人の歴史は白人層からは完全に忘却され、その歴史を知る人も少ない。グリッサンが、その闇の歴史を小説の言語で明らかにした点を、管は高く評価している。管はこの歴史小説を訳して、「<歴史>を軽視した、都合の悪いものすべてを忘却したがっているプルトクラシー(金権)社会に対していったい何ができるのか」(309頁)と問う。中村は、その問いを「特に若い人たちに伝えないといけないでしょう」(同頁)と答える。中村は、グリッサンの歴史小説を「オーラルな世界の中に押し込められてきたアフロクレオルの記憶を文字で語り直す点で、今日の<歴史>を欠いた<歴史>の対極にある作品」(同頁)と見なしている。


 管啓次郎の詩集『一週間、その他の小さな旅』(コトニ社、2023年)は、やわらかい言葉で旅の記録をつづったものである。「こころ」と題する詩を引用してみよう。


    言葉はきみのものじゃない
    木の葉や貝殻のように
    そっと借りてきて並べてごらん
    みごとな美しさ
    そのかたちと色合いが
    きみを自由にする


    命はきみのものじゃない
    地球の生命はひとつで
    きみはその小さな小さなかけら


    鮭もきつねも
    椎の木も昆布も
    私たちはみんなひとつの命


    心もそうさ
    ひとり孤立した心なんかない
    いま舞っている落葉、空をゆく雲
    いま降ってきた雨、打ち寄せる波


    すべてはきみの心だ
    世界の広大でたしかな美しさ


    きみはその小さなかけら (136~137)

 言葉、命、心を寿ぐ詩だ。言葉を意のままにしていると思っている人がいるかもしれない。そうではない。言葉は授かりもの。だからこそ、それを大切に育てていかなければ・・・それこそが自由の証なのだ。
 命も贈りもの。地球の命は大きな命で、万物はその命に支えられた小さなかけら、人も同じだ。
 心は、万物とつながっている。万物の美しさが、心の美しさにつながっていく。


 詩の言葉は心に響く。その響きが心にうるおいをもたらす。木の葉が雨に打たれてみずみずしく輝くように、心も言葉に洗われて蘇るのだ。

人物紹介

管 啓次郎(スガ ケイジロウ) [1958-]

平成時代の比較文学者,翻訳者。 昭和33年9月3日生まれ。東大卒業後,アメリカ・ワシントン大大学院などで学ぶ。平成12年明大助教授,17年教授。「コンテンツ批評」「デザイン人類学」を研究し,評論,エッセーなど幅広く活躍。23年「斜線の旅」で読売文学賞随筆・紀行賞を受賞。著作はほかに「コロンブスの犬」「本は読めないものだから心配するな」,訳書にジャン=フランソワ・リオタール「こどもたちに語るポストモダン」,ジル・ラプージュ「赤道地帯」,エイミー・ベンダー「わがままなやつら」など。 ©Kodansha "すが-けいじろう【管啓次郎】", 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-11-16)

ページトップへ戻る