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ジャーナリストの記事は歴史の第一稿である
推薦文:坪井 兵輔(国際学部 教授)

 紹介するアメリカのジャーナリスト、ジョン・ハーシー著、石川欣一、 谷本清、明田川融訳(2003)『ヒロシマ[増補版]』法政大学出版局は20世紀アメリカ・ジャーナリスム業績TOP100の第一位に選出された史上初の原爆被害記録である。
 カナダの文明批評家、マーシャル・マクルーハンは「メディアとはメッセージであり、身体の拡張である」と論じた。ドイツの哲学者、カール・マルクスは「五感の獲得、意識や認識は人類の達成である」との謂いを遺した。その顰に倣えば『ヒロシマ』はジャーナリストが現場に立ち、五感と全人格を駆使し、奪われた声を聞き、無きものとされた煉獄を見、無臭にされた惨劇を嗅ぎ、封殺された痛苦を舐め、否定された絶望に触れようとした記録と記憶である。祈りであり、願いであり、弔いであり、抗いであり、そして未来である。

書影サンプル
『ヒロシマ[増補版]』(書影)
NDL 国立国会図書館サムネイル

 1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された。自由と平等を建国の理念とし、民主主義と法の支配を掲げるアメリカにとって国際法違反の大量無差別殺人であり、非人道兵器である原爆がもたらす惨劇は「不都合な真実」だった。
 アメリカが主導するGHQは報道規制と検閲を徹底し、米国をはじめ連合国側のメディア報道も禁じた。歴史の襞に沈潜させられた原爆被害はジョン・ハーシー(John Richard Hersey、1914年6月17日生~93年3月24日没)の3万語を超える記事によって無知の桎梏を穿つ一閃の光芒となる。1946年5月、従軍記者として来日したハーシーは同年8月31日発行の知識階級向け週刊誌に記事を書いた。週刊誌『ザ・ニューヨーカー』は巻頭で、この号全体をたったひとつの記事に充てると書き、編集者は「1発の原爆がある都市をほぼ完全に消滅させたこと」、「原爆が持つ信じられないほどの破壊力を把握している者はほとんどいないに違いないと考え、それを使うことがどんなに恐ろしい結果をもたらすか、だれもがじっくり考えてみたほうがいいと確信したから」と掲載理由を説明した。
 全紙面が原爆被害の記事のみで構成される、つまり、一篇の記事が全紙を飾ることは、アメリカの雑誌ジャーナリズム開闢以来初めてであり、歴史となった。アメリカに勝利をもたらし、多くのアメリカ人の命を救った救世主として喧伝された原爆が広島と長崎の市民に後遺症と死の苦しみを与えていることを、人々は全く知らなかった。果せるかな、一大センセーションを巻き起こし、ニューヨークのニュース・スタンドは一日で30万部を売り尽くし、アメリカのみならず、カナダ、イギリス、南米諸国に、そして欧州各国で翻訳され、伝えられた。
 『ヒロシマ』はこの連載記事を書籍化したものである。広島の生存者6人の体験を聞き、文字に刻むことで原爆の実相に迫ろうとした。筆致は乾いている。情緒に流れることなく、主観を排し、インタビュイーの境涯、心境を想像し、断定する表現を避けた。ヘミングウェイを起点とし、カポーティを「一つの」極点とするニュージャーナリズムを想起させる客観に徹した描写が徹底された。価値を表す形容詞、主観の顕現である副詞を極力削ぎ落し、端正な文体で貫かれている。淡々と、しかし、時にユーモアと皮肉を感じさせる書きぶりは一読すると冷淡であり、冷静とあろうとするあまり冷血に感じる人もいるだろう。だが、ジャーナリズムの真髄は「FACTをして語らしめる」ことに他ならない。指弾せず、評価せず、価値観を持ち込まず、ただ、聞く。ただ、紡ぐ。
 『ヒロシマ』は①音なき閃光、②火災、③詳細は目下調査中、④黍と夏白菊から構成され、 紹介する増補版では85年に再訪し、⑤ヒロシマ その後、が追記された。この再訪でハーシーは被爆者であり中村初代、佐々木輝文博士、ウィルヘルム・クラインゾルゲ神父、佐々木とし子、藤井正和博士、谷本清を取材し、終わらぬ原爆症との闘い、市民としての生活、生業、活動などの「終わらぬ戦後」を人道的な筆致で跡づけた。

 戦後80年。核兵器が戦争で使用されてから80年。それは人類が戦争を止めず、核兵器を廃絶しない時間の蓄積に他ならない。今日、超核大国アメリカやロシア、実質的な核保有国イスラエルや北朝鮮は核使用のハードルを下げ続けている。隣国でも核保有の議論は活発化し、日本も核兵器禁止条約に背を向けたままである。
 今年(2025年)1月、「人類最後の日」を想定して残り時間を概念的に示す「終末時計(Doomsday clock」は「残り89秒」になった。
 ハーシーは1984年春の広島滞在時に広島市民にメッセージを送り、中国新聞は85年8月1日掲載記事でその言葉を伝えている。『ヒロシマ』に宿る、その願いを、紹介したい。
 「これまで核兵器の新たな使用を防いできたのは、ヒロシマ・ナガサキに対する人類の記憶だ!」

文責 阪南大学国際学部国際コミュニケーション学科教員
坪井兵輔


人物紹介

ジョン・ハーシー(John Hersey)[1914-1993]

1914年、中国天津に生まれ、家族がアメリカへ帰る1925年まで同地に暮らす。イェール大学ならびにケンブリッジ大学に学び、一時、シンクレア・ルイス(1885-1951、米国の小説家で、1930年に米国人で初めてノーベル文学賞を受賞)の秘書を務め、その後数年間、ジャーナリストとして活動。1947年以降、おもにフィクションの執筆に打ち込む。ピュリッツア賞受賞。イェール大学で20年間教鞭をとり、その後、アメリカ著作家連盟会長、アメリカ芸術文学学校校長を歴任。1994年9月、谷本清平和賞受賞。1993年死去。

―『ヒロシマ[増補版]』より

石川欣一(イシカワ キンイチ)[1895-1959]

1895年、東京に生まれる。東京大学英文科を中退して渡米し、1919年、プリンストン大学卒業。大阪毎日新聞社学芸部員、東京日日新聞社学芸部員・ロンドン特派員、大阪毎日新聞社文化部長・東京本社出版局長等を歴任。訳書に、グルー『滞日十年』、チャーチル『第二次大戦回顧録』、モース『日本その日その日』等がある。1959年死去。

―『ヒロシマ[増補版]』より

谷本 清(タニモト キヨシ) [1909-1986]

1909年、香川県に生まれる。関西学院神学部を卒業後、渡米して1940年、エモリ―大学大学院修了。1943年、広島流川教会牧師に就任し、1945年、爆心から3kmの知人宅で被爆するが奇跡的に助かる。1950年、ヒロシマ・ピース・センターを設立し、原爆で傷ついた少女たちや孤児の救済に取り組む。広島文化平和センター理事長等を歴任。1986年死去。

―『ヒロシマ[増補版]』より

明田川 融(アケタガワ トオル) [1963-]

1963年生まれ。法政大学で博士号取得。政治学。現在 法政大学教授。著書『日米行政協定の政治史-日米地位協定研究序説』(法政大学出版局、1999)『各国間地位協定の適用に関する比較論考察』(内外出版、2003、共著)『沖縄基地問題の歴史-非武の島、戦の島』(みすず書房、2008)。訳書 ジョン・ハーシー『ヒロシマ 増補版』(法政大学出版局、2003、共訳)、ジョン・W・ダワー『昭和-戦争と平和の日本』(みすず書房、2010、監訳)。

―『日米地位協定 : その歴史と現在 (いま) 』より

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