この目次を見ただけでも、本書を興味津々で読めるようにとの著者の配慮がうかがえる。 著者は「プロローグ」でこう告白している。「経済学を教える者として、若い人たちにわかる言葉で経済を説明できなければ教師として失格だとつねづね思ってきた」(2頁)。若者に伝わる話をするためには、具体的な事例をとりあげながら、専門用語に頼らず、平易な言葉を用いて説明することが必要である。著者は、しばしば間違ったことを言う経済学者に頼らず、自分の頭で考え、判断し、意見が言えるようになることを読者に求めている。著者は、離れて暮らす娘に話すつもりでこの本を書いたという。
第1章は、「『パパ、どうして世の中にはこんなに格差があるの? 人間ってばかなの?』」 (22頁)。という、怒りを伴った娘の問いに答えている。著者は、大昔からあった市場と、 特定の要因で生まれた経済を区別すべきと考えている。経済が生まれた要因は、8万2000 年ほど前に発せられるようになった「言語」と、1万2000年前に始まった農耕である。農産物の生産によって、経済の基本となる要素としての「余剰」が生まれたという。農産物の余剰が、文字、債務、通貨、国家、官僚制、宗教、テクノロジー、戦争にも結びついているというのが著者の見解である(26~36頁参照)。農産物の余剰を蓄積して富裕化する一握りの支配者層と、極度の貧困層に二分化したのが格差の始まりだ。著者は、娘に格差の歴史的な背景を知り、格差は当たり前のことだと思わないようにしてほしいと願う。「君には、 いまの怒りをそのまま持ち続けてほしい。でも賢く、戦略的に怒り続けてほしい。そして、 機が熟したらそのときに、必要な行動をとってほしい。この世界を本当に公正で理にかな った、あるべき姿にするために」(44~45頁)。
第2章は、ふたつの価値、すなわち、交換価値と経験価値の話から始まる。市場価値がつくのが交換価値であり、そうでないのが経験価値である。売買の対象になる商品は交換価値をもつが、相互に助け合ったり、遊んで楽しんだりすることは売り買いするものではなく、それぞれが経験する価値である。著者は、この2,3百年の間に、多くのものが商品になり、交換価値が経験価値を打ち負かすようになり(53頁参照)、さらに、市場社会が始まり、生産手段、生産の場所、労働者も商品化されたと述べる(58~60頁参照)。それは、世界がカネで回るようになったということだ。「いまは、城でも絵画でもヨットでも、カネさえ積めば買えないものはない。交換価値が経験価値を打ち負かし、『市場のある社会』が『市場社会』に変わったことで、何かが起きた。おカネが手段から目的になったのだ」(71頁)。その理由は、人間が利益を追求するようになったからだ。それは最近のことだと著者は言う。「利益の追求が人間を動かす大きな動機になったのは、借金に新たな役割ができたことと深いつながりがある」(72頁)。
第3章は、富が借金から生まれる世界を描いている。封建時代の生産→分配→債権・債務という流れが、土地と労働が商品になる時代になって大転換し、分配が生産に先行し始めた。事業者は借金をして生産活動に従事するようになり、借金倒れにならないように利益をあげることを目指した。こうして、事業者間の利益獲得競争も苛烈なものになった。
第4章では、銀行機関や国家の役割、両者の関係、金融危機の正体、焦げつきがなぜ起こるのかなどについての明快な説明がなされている。銀行はこう断罪される。「銀行の黒魔術は市場社会を不安定にする。景気のいいときには莫大な富を生み出し、不景気になると富を破壊する。そうやって、権力と富をひと握りの人の手に配分し、その富を奪う」(118頁)。銀行の狡猾な振る舞いが随所で批判されている。
以下、第8章まで、市場社会の不安定要因としての「労働力」と「マネー」、悪魔が潜む場所としてのマネー・マーケット、市場が混乱する理由、機械と人間の関係の行く末、マトリックスとカール・マルクス、イカロス症候群、ビットコイン、経済活動と地球環境の破壊といった問題が魅力的な語り口で、説得力を持って語られている。これらの章を読めば、現代社会の諸相に目が向くようになり、世界を見る目が変わることは疑いえない。
著者の本音と批判的見方が率直に語られている「エピローグは」、本書でもっとも読むに値するものである。著者の批判のひとつを引用しよう。「市場社会は見事な機械や莫大な冨をつくりだすと同時に、信じられないほどの貧困と山ほどの借金を生み出す。それだけではない。市場社会は人間の欲望を永遠に生み出し続ける」(233頁)。著者は、欲望に駆り立てる装置としてのショッピングモールをやり玉に挙げている。「その構造、内装、音楽など、すべてが人の心を麻痺させて、最適なスピードで店を回らせ、自発性と創造性を腐らせ、われわれの中に欲望を芽生えさせ、必要のないものや買うつもりのなかったものを買わせてしまう」(同頁)。消費する存在と化したわれわれを、欲望の奴隷へと駆り立てる装置は数限りない。いまやわれわれは、ネットやスマホに溢れかえる情報や映像の渦に巻きこまれて、溺死寸前の状況にある。
著者はまた、人間を洗脳するものとしてのマスコミと、政治信条を人々に刷りこむものとしての経済学を批判している。「経済を学者にまかせるのは、中世の人が自分の命運を神学者や教会や異端審問官にまかせていたのと同じだ。つまり、最悪のやり方なのだ」(235頁)。著者は、学者が信用できないから、経済学者になったという。「経済理論や数学を学べば学ぶほど、一流大学の専門家やテレビの経済評論家や銀行家や財務官僚がまったく見当はずれだってことがわかってきた」(236頁)。彼らは、「現実の労働者やおカネや借金を勘定に入れていない」(同頁)。だから役にたたないと断罪されている。著者は、数理モデルを駆使して経済の仕組みを解明し、自分が科学者でもあるかのようにふるまう経済学者のいかさまぶりを容赦なく批判している。
それでは、マスコミを信じず、経済学者の信用できない言説をうのみにしない代わりに何をするのか。著者の答えは、「自分で道を探すしかない」(240頁)である。「え? そんなことできるの」と言い返したくなる。そのために何をしたらいいのか、それがわかる人は少ないだろう。道を探す以前に、迷ってしまいそうだ。
著者は、道を探すためのヒントを語っている。「人を支配するには、物語や迷信に人間を閉じ込めて、その外を見させないようにすればいい。だが一歩か二歩下がって、外側からその世界を見てみると、どれほどそこが不完全でばかばかしいかがわかる」(同頁)。「私が絶対に嫌だし恐ろしいのは、気づかないうちに誰かにあやつられ、意のままに動かされてしまうことだ。たいていの人は私と同じように感じているはずだ。『マトリックス』や『Ⅴフォー・ヴェンデッタ』のような映画がヒットするのはそのためだ」(232頁)。この世界で権力者や政治家によって企まれていることや、現に起きていることを無批判に受け入れてしまえば、何事も平穏に過ぎていくかもしれない。その外に出て見つめること、「遠くから俯瞰してみる視点」(240頁)を持つことを避けて通れば、立ちどまって考える機会も失われるかもしれない。しかし、その状態が続けば、いま何が起きているのか問うこともなく、自分が生きている世界の内で何を考え、どう生きているか、その姿を見定めることもないままに生きて、老いていかなければならない。道に迷って、右往左往することになるのだ。
著者はこうアドヴァイスする。「世界のありのままの姿をはっきりと見るために、積極的にはるか遠くの場所まで旅をしてほしい。それによって、君は自由を得る機会を手にできる」(241頁)。特定の環境のなかに閉じこもっていると、巨大な政治やマスコミの力に拘束され、支配されかねない。だからこそ、くびきを断ち切って旅に出ろと檄を飛ばしている。
おしまいの方で、著者は若者たちにこう呼びかけている。「大人になって社会に出ても精神を開放し続けるには、自立した考えを持つことが欠かせない。経済の仕組みを知ることと、次の難しい問いに答える能力が、精神の自由の源泉になる」(241頁)。その問いは、「『自分の身の回りで、そしてはるか遠い世界で、誰が誰に何をしているのか?』(242頁)というものだ。この問いに答えるためには、本書の中心に置かれている「『この世の中には有り余るほどおカネを持った人がいる一方で、何も持たない人がいるのはなぜだろう?』」(242頁)という疑問を突きつめてみること、自分の周囲や、自分の見知らぬ遠い世界で何が起きているかを注意深く見つめて、考えること、さらにまた、深く考えるために必要なことを知ることが大切である。現実の社会は、格差の解消とは逆の方向に向かっているし、金儲けを優先する強欲な者たちによる環境破壊はとどまることを知らない。支配の欲望とむすびついた戦争は人々の平穏な暮らしを奪いさり、大地を疲弊させている。そうしたことがなぜ起きるのか、それを考えることもわれわれに求められている。
本書は、経済に関心を持つ人にも、そうでない人にも等しく訴えかけてくる圧巻の本である。高校生や大学生にとっても、社会人にとっても読みごたえのある一冊である。
ヤニス・バルファキスは、「プロローグ」で4冊の本をすすめている。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(倉骨彰訳、草思社文庫、2012年)、リチャード・ティトマスの『贈与関係』(未邦訳)、ロバート・L・ハイルブローナー(1919~2005)の『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(八木甫他訳、ちくま学芸文庫、第24刷、2021年)、マーガレット・アトウッドの『負債と報い―豊かさの影』(佐藤アヤ子訳、岩波書店、2012年)の4冊である。アトウッドの本については、拙書『19歳の読書論 図書館長からのメッセージ』(晃洋書房、2018年)の「カナダ文学の一面―多文化主義のゆくえ―」のなかですでに取りあげている。
ハイルブローナーの本について少し触れておこう。ハーバード大学や「ニュースクール」で教えた人である。この本は、ハーバード大学を卒業後、「ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」の大学院に進んだハイルブローナーが、そこで在学中に出版したものである。本書は20数ヶ国語に翻訳され、多くの大学で経済学の入門書として利用されている。
本書の原題は、The Worldly Philosophers であり、副題は、The lives, Times, and Ideas of the Great Economic Thinkers である。過去のすぐれた経済学者の生き方、時代背景、考え方を丁寧に描いている。アダム・スミス、マルサス、リカード、マルクス、ソースタイン・ヴェブレン、J・M・ケインズ、シュンペーターなどが取り上げられている。
本書の成立事情に触れた箇所が面白い。ハイルブローナーは、大学院で勉強していた頃に、生活費を稼ぐためにフリーランサーとしていくつもの文章を書いていた。それに目をとめた出版社の編集者との間で、経済思想の発展史をテーマにした本を出すことに決まった。ハイルブローナーはさっそく、自分の指導教授のアドルフ・ロウ教授に、経済思想の発展史を執筆したいという決心を伝えた。老教授はひどく驚き、「君にはできないね」と威厳ある態度できっぱりと言い切った。ひるむことなく最初の3章を書き上げた彼は、教授に見せた。数ページに目を通した教授は、「これは君がやるべきだ」と告げた(8頁参照)。こうして、この本が世に出た。
ハイルブローナーは、「序文」でこう述べている。「私は、何十万という疑いを知らない犠牲者を経済学の課程に誘いこんだ、と言われた。私は、その結果として経験することになったのかもしれない苦労に報いることはできないが、多くの経済研究者から、本書が示した経済学のヴィジョンを通じて初めて経済学への関心を呼び起こされたという話を聞き、大いに喜びを感じている」(10頁)。
第1章の「前奏曲」で、本書のテーマが示されている。「われわれは、偉大な経済学者たちが見つけたわれわれ自身の社会の根源を、混乱した社会の中に再発見するために歴史を遡ることにしよう。そうすることによって、偉大な経済学者たち自身を知ることになるだろう。それは、彼らの人となりが華やかな場合が多かったからだけでなく、彼ら自身が思想の創始者だったからである」(20頁)。
第2章で「市場システム」について論じられた後、第3章から第8章までで、先に挙げた経済学者たちについて主題化されている。第11章で、著者の経済学に関する定義と目的が述べられている。「経済学はその核心において、われわれが経済と呼ぶ複雑な社会的存在の働きについて、さらにはその問題点と見込みについて、われわれに教えるのを目的とする、説明の体系なのである」(508頁)。「経済学の目的は、予見しうる未来に向け、われわれが集団としての運命を形づくっていかざるをえなくなるであろう資本主義の環境について、よりよく理解するのを助けることである」(520~521頁)。
なお、本書の「読書案内」には、経済学関連の書物が豊富に紹介されているので参考にしてほしい。
本書をバルファキスの本と重ね合わせて読めば、現代社会を見つめる確かな視点が得られるにちがいない。
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